越後村上 塩引き街道と、村上藩士・青砥武平冶

上にとって、冬の風物詩といえば「鮭の塩引き」だ。

 

同市庄内町・小町では、村上伝統の加工法で作られた「鮭の塩引き」が、町屋づくりの家々の軒下にさげられている。

 

 そして、ときおり吹く寒風に鮭が揺れる光景は、どこか懐かしさを感じさせてくれる。12月20日まで見ることができるそうだ。

 

 ところで村上と鮭の歴史は長い。

 

 江戸時代の村上藩にとって鮭は大切な収入源であり、保存食でもあり、中央への珍重な贈答品でもあった。

 

 しかし江戸後期、鮭漁は不漁となり深刻な事態に陥った。300両あった鮭の漁から村上藩に入る「運常金(租税の一種)」はわずか5両に激減した。

 

 当時、鮭の生態系が分からず、秋になれば獲れていた鮭がどうして獲れなくなってしまったのか分からず、頭を抱えるしかなかったという。

 

 この窮状を救ったのが、長年鮭を観察し続けてきた村上藩士・青砥武平冶。

「鮭は川で生まれ海で育ち、またその川に産卵のために戻る回帰性というものがある。鮭を保護し鮭の産卵の手助けをすれば三面川に鮭を甦らせることができるはず」

 

 鮭の回帰性に着目した青砥は、三面川に鮭の産卵に適した河川改修を行うとともに、その上流と下流に柵を設置することで、鮭を自然増殖させる方法を考えた。そして、藩に建議した。

 

 案は村上藩に受け入れられた。 

 1762年、青砥にとって、前例のない命がけの事業が始まった(その後、工事は31年の歳月を費やした)。

 

 青砥はまず鮭が産卵するのにふさわしい場所を選定。河川を改修するとともに、そこに柵を作り、鮭を囲い込み、産卵させた。また鮭の子が川を下る季節にはここでの川漁を一切禁じた。

 

 こうした事前増殖は奏功して1967年には運上金が約40両まで回復した。さらに1796年以後は、1000両を越えるようになった。

 

 この鮭の利益は、教育の振興にも大きく貢献した。利益を原資に学校を建設したほか、奨学金制度を創設。そして奨学金で育った人材は、全員が故郷に帰ったわけではないが、「鮭の子」と呼ばれ、様々な分野で活躍したという。