<三木義一・税を考えるもう一つの視点>第2回「10分の一税」(青山学院大学名誉教授、前学長・弁護士)


*過重な献金と銃撃

安倍元首相の銃撃事件は大きなショックを社会に与え、さらに安倍氏の葬儀を国葬にすることで賛否両論が渦巻いています。銃撃直後、この事件の背景に安倍批判をする左翼があると息巻いていた評判家たちは、犯人が元々安倍シンパでありながら、旧統一教会の異常な献金で家庭崩壊した家庭で育った、献金の被害者でもあったためか、沈黙しています。
この団体は、事件直後、次のように献金のことを弁明しています。

「ご本人の意思で献金されていきますが、献金の額それぞれはご本人の心情に基づいて献金されていると受け止めています。いわゆる十分の一の献金ということは意識して教育している」

この十分の一という基準は、いわゆる十分の一税を念頭に設けられた基準と思われますので、今回はこの税を考えてみましょう。

*何の十分の一

まず、この負担をどの程度の負担だと読者は感じるでしょうか。10%なら、仕方ないと思いますか?いわゆる十分の一税はキリスト教世界だけではなく、古代ではメソポタミヤ、中国、エジプト、ギリシャ等々至る所で実施されていたようです。ですから、神に捧げるものというよりは、様々な支配者に利用されてきた制度です。所得税などになれてしまっている現代人は十分の一というと所得の10%と錯覚しまいがちです。しかし、所得というのは「収入から経費を引いた差額」、つまり儲けのことですから、比較的新しい概念です。所得税自体も1798年にイギリスで導入されましたが、本格的に使われるようになったのは1900年代に入ってからと言って良いでしょう。古代からあった十分の一税の基準は、ですから、所得ではなく、収入でした。儲けの一〇%ではないのです。利益率一〇%の人は儲けがねこそぎなくなるわけです。今回話題になった団体の解説を見ると、次のようにやはり収入金額基準でした。

十一条献金は、収入の十分の一を教会や教会堂を通じて神様に捧げる行いのことです。統一教会の十一条の伝統はまた、神様に侍る姿勢をも示しています。十一条の献金は、所有している物質中の十分の一を神様に捧げることにより、残りの十分の九も聖なるものとして取り扱い得るようになります。このように、十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対に滅ぶことがありません。日がたてばたつほど倉庫がいっぱいになっていくのです。
https://uc-takenotsuka.com/info/reihai/konsyuureihai

収入の十分の一づつ献金するという大変な負担なのに、不思議なことに倉庫がいっぱいになっちゃうんですね。
収入の10%課税と言ったら、現代人からすると、恐ろしい税負担です。そのような高負担を押しつけることができたのは、十分の一という数字のマジックかもしれません。人はものを数えるときに、昔から指を使ってきました。10本の指のうち、一本分だけ捧げるのだと説明すると、残りは9本もある、と錯覚させることができたのでしょう。

*十分の一から十分の十へ

しかし、収入の十分の一の税負担を払えないと、どうなったのでしょう。奴隷にされてしまったようです。奴隷としての労働になると、その収穫物は奴隷の所有者のものになってしまいますから、十分の十の負担へと落ちていきます。過酷としかいいようがありませんね。
このような十分の一税をフランス革命は廃止しました。そのおかげで、人間社会は少し合理的な社会になれたように思います。

 

三木義一

1950年5月3日生まれ。1973年3月中央大学法学部法律学科卒業、1975年3月一橋大学大学院法学研究科公法専攻修士課程修了修士(法学)、1975年11月一橋大学大学院法学研究科公法専攻博士課程退学。1994年4月立命館大学法学部教授、2010年4月青山学院大学法学部教授、2014年4月青山学院大学 法学部部長・大学院法学研究科長、2015年12月同大学学長、2019年12月  学長退任、2020年4月定年退職。現在は弁護士、青山学院大学名誉教授。著書に「日本の税金(第3版)」(岩波書店2018年)、「日本の納税者」(岩波書店2015年)、「相続・贈与と税」(信山社2005年)など。その他、実務書、監修書なども多数ある。


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