「米最高裁中絶判決とトランプの高笑い」(明治大学名誉教授 蟹瀬誠一)


お騒がせトランプ前大統領が退任前に仕掛けた置き土産が米国を暗黒時代に逆戻りさせてしまった。

米連邦最高裁は6月末、人口妊娠中絶を憲法上の権利と認めた1973年の「ロウ対ウェイド判決」を6対3で無効と判断した。半世紀も前に連邦最高裁が定めた判例を同じ最高裁が自ら覆すのは極めて異例なことだった。

それ以来、中絶の権利に対する憲法の保障がなくなり、全米の50州の半数を占める保守的な州では中絶が禁止または厳しく制限され始めている。最近のギャラップ調査では79%の米国民が人工中絶は合法であるべきだと回答しているにも拘わらずだ。

なぜ、そんなことが可能になったのか。

それは中絶禁止合法化を公約としていたトランプ前大統領が任期中に保守派判事3人を最高裁判事に指名し、それまでは拮抗していた最高裁のパワーバランスを保守派6対リベラル派3と圧倒的に保守派に傾けたからである。

「生命のための最大の勝利だ。・・・すべては尊敬すべき強固な立憲主義者の判事3人を指名し、公約を守った私のお陰だ!」

“仕掛け人”であるトランプはそう言い放って自画自賛した。どこまでも自己中心的なのだ。

じつは、トランプはもともと中絶容認派(といってもそれほど真剣には考えていない)だったが、大統領選でエバンジェリカル(キリスト教原理主義者)や宗教保守派の支持を取り付けるため反対派に転向しただけだ。嘘もつけば、自分の都合で意見もころころ変える政治家の典型である。米国はそんな男に大統領職を与え、最高裁を牛耳らせてしまったのである。

トランプ退任後もその影響は深刻だ。賛成意見を書いたトーマス判事に至っては、中絶権の見直しに加えて今後は、避妊や同性愛行為の自由、同性婚などの合法性を認めた過去の判例を見直すべきだと主張している。そうなれば、過去の多様性を無視した抑圧社会に逆戻りするだけだ。

民主党のバイデン大統領は中間選挙で権利擁護派に投票するよう呼びかけているが、なにしろ事態は激変している。少なくとも13の州では連邦最高裁が「ロウ対ウェイド」判決を否定すると自動的に中絶を禁止するトリガー法が既に成立しているのだ。

南部ルイジアナ州では21日、中絶を実施した者に最高で禁固10年、罰金10万ドル(約1360万円)を科し、レイプや近親相姦による妊娠にも例外を認めない中絶規制強化法が成立。最高裁の判断と同時に発効した。保守層が多いテキサス州では中絶を実施した医師が終身刑となる可能性もあるというから恐ろしい。

それにしても米国で中絶がなぜこれほどまで政治的大問題になるのか。その答えは、米国が宗教大国だからだ。中絶はキリスト教の信仰と深く結びついているのである。米人口のおよそ半分を占めるプロテスタント福音派や、カトリックらキリスト教保守派は今も昔も、中絶は殺人であり神への冒涜だと信じている一大政治勢力なのだ。2016年の大統領選ではエバンジェリカル(キリスト教原理主義者)の8割がトランプを支持した。

今や人工妊娠中絶は「生命」や「人権」といった倫理の問題を超えて、トランプ色に染まった中絶反対派の共和党によって政争の具として使われるようになっている。

11月の中間選挙を前にアフガン撤退や新型コロナ対応での不手際や物価高騰で支持率が低迷しているバイデン政権にとっては頭の痛い状況だ。

トランプの高笑いが聞こえてくるようだ。

 

蟹瀬誠一

1974年上智大学文学部卒業。米AP通信社、フランスAFP通信社記者、米TIME誌特派員を経て、1991年にTBS『報道特集』キャスターとして日本のTV報道界に転身。米国、欧州、南米、中東、アジア、中国、ロシア情勢など海外ニュース取材に活躍。西側TVジャーナリストとして初めてロシア戦略原潜タイフーン内部取材、中国マフィアなどをスクープ。ウクライナ戦争についても連日寄稿している。現在は『賢者の選択Fusion』キャスター、『ニュース・オプエド』編集主幹。外交政策センター理事、価値創造フォーラム理事、明治大学名誉教授、東京クラシッククラブ専務理事。趣味は読書、美術鑑賞、ゴルフ。


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