「77年目の戦争と平和」


8月2日、3日の2日間、長岡市では3年ぶりとなる「長岡まつり大花火大会」が開催された。

空襲警報を模したサイレンを鳴らし、前夜に鎮魂の3尺玉を打ち上げるなど、他に類を見ないプログラムの長岡の花火大会は、日本3大花火のひとつでもある。例年100万人以上の見物客が訪れ、戦争の悲劇が二度と起こらないよう祈る鎮魂の祭でもある。

明治維新直後の1879年、遊郭関係者が資金を供出しあい350発の花火を打ち上げたのがその発祥と言われる。戦後は、終戦直前の1945年8月1日夜の空襲で命を奪われた1,400人以上の市民の慰霊のための「長岡復興祭」がその起源とされる。

同じ77年前の8月のきょう、日本のポツダム宣言受諾によって第二次世界大戦の終結が確定した。日本では8月15日を終戦記念日としているが、旧連合国では降伏文書調印の9月2日をもって終戦としている。

全世界で6,000万人とも、8,000万人とも言われる死者を数えた大戦では、日本国内だけでも約230万人の戦死者、民間人80万人もの命が失われたとされる。

新潟県も例外ではない。空襲による死者数は1,500人を超え(国内18番目)、とりわけ大規模空襲を受けた長岡市の犠牲者がその大半を占めた。

8月1日の長岡空襲は、東京、富山、仙台、水戸と並んで、米軍による大規模な無差別空爆の対象都市で、実に市内の80%が焦土と化し、1,400人を超える命が一夜にして奪われた。

新潟市でも7月17日と8月10日の2回にわたって爆撃を受けたのを筆頭に、計12回の機雷投下などで100人以上の犠牲者を出している。

日本と満州を結ぶ最短路の要衝であった新潟市は、内地への物資受け入れ港として、戦争末期、重要性が高まっていたゆえに米軍の軍事的標的とされていた。

当時の新潟市長による原爆疎開の「知事布告」が出されたのは8月10日、実際に米軍は、新潟市を原子爆弾投下目標の一つに定めていたが、終戦により投下を免れている。戦争に勝者はいないという。

国家間の戦の前に、個人は圧倒的に無力であるし、戦争を遂行した指導者たちもいつかは歴史の舞台から消えていく。戦勝国も、敗戦国も、長い歴史の中でみれば衰亡を免れない。果たして、人類は何のために戦い続けるのだろうか。

第二次世界大戦からの77年間、日本は戦火を交えていない数少ない国のひとつとなった。その多くが偶然の要素に起因しているとはいえ、世界史の中で不戦を貫き、平和と繁栄を享受してきたのは事実だ。未来がどうなるかは誰にも予測できない。だが、わたしたち日本人は、この77年間の平和を誇りとしてもいいだろう。

奇しくも、明治維新(1868年)から終戦(1945年)までの諸外国との戦乱史の期間も77年間だった。欧米列強からの独立のための戦いから、大東亜共栄圏を夢想した大陸進出、そして、突入した太平洋戦争の終結まで77年間の戦乱の歴史をわたしたちの先祖は生きてきた。

その前の268年間の江戸時代が太平の世だったと比して、なんと激しい時代だったことだろう。いや、戦乱の世こそ人類史における常態だとすれば、終戦からの77年間の今日の平和の方がむしろ例外的なのだ。

次の77年間を平和な時代にするのか、あるいは戦乱の歴史にしてしまうのか、いま生きているわたしたちすべてに重い責任が課されている。


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