【第二回新潟文学賞受賞作掲載】純文学部門佳作「川のゆくえ」若山香帆

今年5月に決定、発表された第二回新潟文学賞の受賞作を大賞、佳作ともに掲載します。

純文学部門佳作

「川のゆくえ」若山香帆

いてもいなくてもよくなることについて考えていた。窓の外は白い。薄明るい空を背景に、蓮なる山の端は遠ざかるにつれ灰色にけぶり、黒く沈んだ木々にもまばらに建つ家々の屋根にも雪が積もっている。地面を覆う白はひときわ分厚く、その下に何かがあるとは思えないくらい、そのうちに溶けてなくなるとは思えないくらい、あたりまえのようにどこまでも続いている。
糸魚川って糸魚川市にはないんだって。え、じゃあどこにあるの。いや、それはわからないんだけど、あっねえそろそろおなかすかない。そうね、お昼なににしようか。話しながら二人連れが降りていって、新幹線の車内で一人になる。暖房が強い。暖かすぎるくらいだ。ダウンを脱いで横に置き、窓ガラスに頬を押し当てる。ガラスは冷たい。ほてった顔から熱が奪われていく。冷えたところを手でおさえ、キーボードを叩くように指先を動かす。冷えた頬の表面は鈍くなっていて、そこだけが少し自分の体じゃないみたいだ。外界にさわっている部分のほうが現実感がない。よくあることだ。
頬をおさえたままでいると段々と掌の熱が移る。温まった頬に失われていた感覚が戻ってくる。糸魚川が結局どこにあるのか気になる。
糸魚川市にないってことは、隣の市にあるとか、富士山みたいなことだろうか。いや富士山は県境にあるだけで富士のつく地名の場所にあるのか、でもそんなことを言い出したら富士山が見えるだけで富士山のない冨士なんとかって土地はいくらでもあって、ああ糸魚川が見えるから糸魚川市ってことかも、と納得しかけるが、山はともかく川が隣の市から見えるってどういうことだろうか、遠くから見える川って、滝ならわかるけど。そう思考は流れていくがもちろん答えは見つからない。知らないことはわからない。わたしの中には糸魚川に関する情報はほとんどないのだから。
頬の次はおでこ、左頬、鼻の頭、顎、と冷たくなるたび順に場所を変えて、一巡して戻って二度目の右の頬。冷えた皮膚はもう温かくなっていて、ガラスに押し当てるとまた新鮮に冷たい。体の奥から湧いてくる熱のことを考える。すべてのエネルギーは最後には熱になる。
滝の水が落下するだけでもほんのわずかに水の温度は上昇する。位置エネルギーから熱エネルギーの変換。落ちる雪もかざした腕も熱を発する、たぶんこうやってとりとめなく流れていく思考も、例外なく熱を発している。
生きてるな、と思う。持ち主の意思に関わらず熱を発して生きようとする体には若干うんざりしなくもないが、おおむね健気でかわいいと思う。え、かわいくない? わかるわかる、かわいいかわいい。わたしもわたしの体もみんなの体もかわいいかわいいだよ。
ここのところあまり眠れないが車内でもそれは相変わらずで、時間をつぶそうと道すがらに調べたところによれば、糸魚川ではひすいが採れるらしい。地下のずっと下の方にはフォッサマグナというのがある。ラテン語でフォッサは溝や裂け目という意味で、マグナは偉大な、巨大な、という意味で、だからフォッサマグナは大きな溝ということだと書かれていた。裂け目からあふれた熱が水や土を温めるところを想像する。温められた土が水がうねり、生き物が活動する素地となる。わたしからあふれた熱は冷えた窓ガラスを温め、圧倒的な外の寒さにさらわれて、それでも健気にまたあふれ、流れ出ては冷えた頬を温め直す。もうそれならいっそフォッサマグナも、というか地球がかわいいな、この惑星を包み込むかわいさ、って要するに熱って愛だ愛、愛が全ての源ですよ、なにより大事なのは愛、愛があればなんとかなる、だからわたしはわざわざ行ったこともない糸魚川までいるかどうかもわからないあの人を探しにやってきたのだ。別にまとめる必要もないがそう雑に結論づけ、再び窓の外を見る。車窓を過ぎていく白い風景が速度を緩める。駅が近いようだ。規則的な振動が間遠になっていく。夢から醒めるみたいに北陸新幹線の青い鼻面が糸魚川の駅に入っていく。

3
ドアが開くと慣れない雪国の寒気が車内に流れ込んでくる。慌ててダウンをはおり、顔を上げるとホームから黒く丸い目が見つめている。相変わらずまばたきの少ない、表情の読めない目だ。義兄とは三年前に法事で会ったきりだが、この目だけは忘れられない。あれは誰の何回忌だったか。そう考えながらホームに降りる。窓から見える海が驚くほど近い。寒々しい曇り空の下で、日本海の水面は鈍色だ。十年ほど前に火事で海岸線まで燃えたという街並みは真新しく、整然として白い雪をかぶっている。道はがらんとしている。人の姿は見えない。
歩行者どころか車の影もない。反対の窓からは真っ白に冠雪した北アルプスの稜線が見える。ここは山と海に挟まれた土地なのだ。
一応新幹線の停車駅だというのに、降りる客はわたし一人きりだ。電車が行ってしまうとホームドアが閉まる。だれもいない駅は明るい。
あの人の生まれた土地に偶然義兄が赴任してから数年が経つが、訪れるのはこれが初めてだ。新幹線の駅らしく立派で、新幹線の駅にありそうなものは大抵ある。すべてがきれいに整えられ、見る者のない電光掲示板が次の電車の到着時刻を知らせている。ガラスで囲まれた待合室にも人影はない。風が冷たい。駅周辺の案内図と観光マップが並んでいる。ざっと見た感じどちらの地図にも糸魚川らしき川は見当たらない。少なくとも駅の近くにはなさそうだ。
ポケットからひっぱり出した手袋をはめながら近づいていくと、こちらに向けられた義兄の眼差しを上から見下ろすかたちになる。違和感がある。義兄は背が高くて痩せていたような気がする。少なくともわたしよりは大きかったはずだ。記憶のなかの姿と違う。違う、気がする。戸惑いながら俯くと蹄が見える。雪を踏み締めた蹄の先は二つに割れている。偶蹄目。偶蹄目だ。偶蹄目は牛や鹿をはじめとした蹄が二本に分かれる陸生動物からなる分類群だが、鯨類のグループと単系統をなすことが判明した結果現在では陸生動物と鯨類を含む分類群が偶蹄目とされている。偶蹄目と鯨目と呼ばれていた分類群が併合してできたことから、鯨偶蹄目と呼ばれることもある。牛と鹿はともかくとして、鯨か。義兄は偶蹄目だったろうか。鯨っぽいところなんてあっただろうか。長身のわりに少食で、法事のときも小さいあられのような菓子ばかり口にしていたところくらいしか思いつかない。あまり話さずあまり動かない印象で、考えてみれば牛とか鹿とかみたいなところはあったかもしれない。この子は昔からおっとりしていて、と義母は言ったが、わたしにはおっとりというよりなにを考えているかわからないひとに見えた。これは義兄だろうか。曖昧な記憶を探るが、わからない。
あの。
いつまでも黙ったまま見つめあっているわけにもいかない。とりあえず義兄(仮)ということにして失礼のないよう声をかけるが、義兄(仮)は動かない。
お久しぶりです、おにいさん。寒いなか迎えにきていただいてありがとうございます。お忙しいのにお手数をおかけしてすみません。
わざとおにいさんと呼びかけて様子をみるが、義兄(仮)は気にするふうでもない。頭を何度が上下させて頷くそぶりを見せると踵を返して歩き出し、数歩進んだところで振り向いてまた頷く。着いてこいということだろうか。振り向いたときに目をしばたたかせるのは義兄のくせだったと思う。あの法事のときもそうだった。庭に出て伸びをして、昔話に興じる親戚連中でいっぱいの室内を眩しそうにまばたきしながら振り返り、なんとなしにその姿を目で追っていたわたしと視線を交えたのは義兄ではなかったか。あれは太陽も出ていない薄曇りの日で、やけに芝居じみた仕草が印象に残っていた。やっぱりこれは義兄なのかも知れなかった。

4
どこにいくんですか。
そう訊ねてみるが返事はない。とにかく着いていこうと決めて歩き出す。今日のために購入したスノーブーツは暖かいがわたしには少し大きすぎる。雪のないホームの上では歩きにくいだけだ。大袈裟すぎたかもしれない。重たいブーツに足をとられてなかなか進めずにいるうちに、気がつくと義兄(仮)の後ろ姿が遠い。今にも階段の下へと姿を消してしまいそうだ。このままでは置いて行かれてしまう。追いかけようと思い切って踏み出した靴底が滑る。体が浮いて回転する。ああまずい。宙に浮いた体はなすすべもなく、せめて背中から地面にたたきつけられる衝撃を和らげようと目を閉じ身構えるが、そのときは来ない。深く息を吸い、吐く。ながい時間がたったように思える。まだそのときは来ない。時間が止まってでもいるかのように体は空中で静止している。いつの間にか背中は硬い地面の代わりに重く柔らかく温かいものに受けとめられて揺れている。目を開けると、暗い天井から下がる蛍光灯の長く続く一本のラインが見えた。明るすぎる。探るように両脚を伸ばす。両手を閉じ、もう一度開く。頭をゆっくりと左右に振ってみる。どこも痛くない。どうやら怪我はないようだった。
そう確かめると急に安心して、背中から伝わる振動と熱で眠たくなってくる。たぶんわたしは義兄(仮)に背負われていて、たぶん寝ている場合ではない。本当なら起き上がって助けてくれたことに礼を述べ、自分の足で歩くべきだろう。おかげさまでどこも痛くないし怪我もないのだから。あるいはせめて無事を知らせる声を発するくらいはするべきだろうと思う。でもそうする気にならない。そんなこと全くしたくない。このまま寝ていたい。
義兄(仮)はわたしの安否を確かめるでもなく、黙ったままどこかへ向かって歩いていく。そうだ、どこに行くのかだけでも教えてもらわなければ。あの人の居場所がわかったのかもしれない。そう考えるがもう声も出ない。背中から伝わってくる、たゆみない一歩一歩の揺れとふさふさとした毛を通して感じられる体温には抗いがたい引力があり、わたしは立ち上がるどころか口を開くのも億劫になっている。
このまま眠ってしまいたい。あたりの静寂が後押しする。聞こえるのは義兄(仮)の蹄がたてる規則正しい足音、駅の設備かなにかの立てる低い唸り、それに繰り返し流れる聞く者のない乗換案内だけだ。
わたしの瞼はもう一度閉じられた。もう駄目だ。欲望に素直なのがわたしのいいところでもあり悪いところでもあるのだ。世界が暗転する。意識が裏返って地下へ、熱のある方へと深く潜っていく。街中に降り積もる雪が音と熱を吸いこむ。眠りがわたしを吸いこむ。
浮上する。浅いところまで戻ってきて、明るくなっていることにまだ気がつかないふりをしている。醒めてしまえばまたあの人を探さなければならない。もう少し眠っていたい。でも瞼の向こう側は白い。思いに反して体は目覚めていく。寒い。まつ毛に冷たいものが落ちてくる。こらえきれなくなって薄目を開けると、曇天を背景にしてわずかに明るいトーンの雪片が次々に落ちてくるのが見える。丸く切り取られた空を縁取るのは背の高い針葉樹の尖った黒いシルエットだ。背中にはもう温かさも揺れも感じられない。硬い地面から冷気が伝わってくる。身じろぎすると体の下で積もった雪がきしきしと音を立てた。息を吸い込むと雪のにおいと濡れた土のにおい、それから木のにおいがした。どこからか水の流れる音が聞こえる。観念して顔を拭い、身を起こして辺りを見回す。わたしがいるのは、森のなかに円形に拓かれた直径五メートル程の小さな広場のまん中だった。森の広さは見当もつかない。広場の端から先には靄が立ち込めていて、森の全貌はわからない。義兄はどこに行ったのだろう。
体をひねって立ち上がるとあちこちが軋む。ずいぶん長いこと眠っていたみたいだ。おにいさん、どこですか。呼んでみる。

5
ずっと黙っていたせいで声は掠れていて、雪と靄に吸い込まれるとすぐに消えてしまい、遠くまでは届かない。周囲には広大な森が広がっているように思えるが、それにしては鳥のさえずり一つ、葉擦れ一つさえ聞こえてこない。ただせせらぎだけが、微かに、間断なく、通奏低音のように続いている。
見られている気がする。だれの姿も見えず声も聞こえないが、四方に詰めかけたたくさんの気配が靄のなかからこちらを見ている。気づいた途端心臓がはねる。胸の音を押し殺して、できるだけのんびりと顔をめぐらす。次いで素早く振り向くと、すぐそこまで迫っていたものが後ずさる。ざあっという音が聞こえそうなくらい露骨に。
ふと視界の端に人影がよぎった。振り向くと靄の向こうで影は立ち止まる。知っているだれかのように思えるが、だれだかわからない。
影もこちらを見つめているようだ。夫が迎えに来たのだろうか。黙って出てきたが、義兄が連絡したのかもしれない。あの兄弟は不仲だった気がするけれど、よく知りもしない弟の妻が訪ねてくるとなれば、そういうことはあるかもしれない。でも夫にしては影は小さい。それにそうだ、夫はどこだったか南の方に出張中のはずだから、こんなところにいるはずがない。影の方に一歩踏み出した足がよろけて地面に両手をつく。いつの間にか手袋の外れたむき出しの手のひらに堆積した雪が触れ、体重をかけるとその下の落ち葉と枝の折れる音がした。
人の体の表面をなぞるようだ。皮膚は少しひんやりして、少し押すとその下の骨や筋肉、内臓の詰まっているのがわかる。その奥の熱も。夫の出張先はどこだったろうか。確かに聞いて送り出したと思うのだが、どうしても思い出せない。近頃はそういうことが多い。思考はすぐに流れていって、時間の流れに飲まれてしまう。大事なはずの顔も名前もとどめておけない。とどめておくだけの力も熱も足りないのだ。
両腕に力を込め、立ち上がろうとしたその時、右手の先に丸いものが触れた。手繰りよせて掌に収める。拳よりやや小ぶりの丸くて赤い果実だ。なめらかな表面に顔を近づけると、林檎に似た甘い香りがする。味も林檎と同じだろうか。かじってみようと口を開けると、ふいに目の前に白い腕が突き出された。たたき落とされた赤い実は雪の上を転がっていき、たちまち靄に隠れて見えなくなる。いつの間にか影はすぐそこにいる。今度はわたしに近づいてくる白い手を、避けるべきかどうか判断できない。車道に飛び出てライトに照らされ棒立ちになる野生動物のように、咄嗟に動けないでいるわたしの頬を手はゆっくりと撫でる。熱のない冷たい柔らかい手だ。指先から掌まで使って、確かめるように、覚えておきたいとでもいうように、記憶をなぞるように丹念に手は繰り返し頬を撫でる。触れられるたびに熱が奪われていく。なにかを、知らないはずのなにかのことを思い出しそうになるが、もう少しで像が形を結ぶというところで手は離れていってしまう。夫の出張先、振り返る義兄の目に写るもの、糸魚川の場所。そうだ、糸魚川は結局どこにあるのだろうか。糸魚川に行けばあの人に会える気がする。いとしい、いとけない、いとわしい、わたしのあの人。
あの人を探さないと。そう小さく口にした瞬間、手は靄のなかに引っ込み影が身を翻した。わたしは弾かれたように走り出した。夢中で影を追う。あの影があの人だとわかったからだ。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。揺れる髪のはねた毛先、体のわりに長い手足、細い肩と首に乗った頭のかたち、それに白い手の先についた小さすぎる爪、みんなわたしによく似ているのに。子どものころは出かけるたびに、行き会う近所の人たちはみな口をそろえて言った。まあまあ、おかあさんにそっくりねえ。わたしたちはこんなに似ているのに、もう少し早く気が付いていれば追いつけたのに。

6
わたしそっくりのかたちをした、わたしより少し小柄な影は、木の間を走り抜けてどんどん遠ざかっていく。針葉樹のまっすぐに伸びた幹で分断された風景のなかを見え隠れして、現れるたびに影は遠く不明瞭になっていく。もう少し早く気が付いていたら追いついて白い手をとることができたのに。
おかあさん、待ってよ。なんの企てもなく出た声はまるきり無防備に森のなかへ響き、吸い込まれていった。走りつづけるが影はもう見えない。なにも聞こえない。何も起こらない。すべて無駄だったのだろうか。もう追いつけないのだ、走る意味はないのだ、そう理解するのに時間がかかり、わたしはなおも足を動かす。立ち止まるころには靄は晴れていて、自分のいる森の姿を見ることができた。休もうとして手をついた幹はやはり針葉樹で、わたしの胴体よりもずっと太い。杉のようだ。根元は雪と苔で覆われているが木肌は乾いて温かい。回りきらない両腕を回して抱きしめ、体重を預けて目を閉じる。顔を横に向けて耳をぴったりつけると、樹液の流れるごうごうという音がする。人を抱きしめるより余程落ち着く音だ。人間はうるさすぎるのだ。
上のほうで風が吹き、木々が一度に揺れてざわめく。鳥の声が戻ってくる。急に疲れを感じる。立ちくらみがして内臓がしくしくと痛む。からだを二つに折ってこみあげてきたものを吐く。血の混じった吐しゃ物が雪の上に流れて溜まる。ずいぶん遠くまで行ってきたようなかんじがする。もう帰らなければいけない。車の音が聞こえた気がして、そちらへ向かって歩きはじめる。視界が狭まり頭が割れるようだ。幹から幹へと伝い歩き、からだを支えながら進んでいく。ブーツが重い。緩い坂を下っていくと突然視界が抜け、頭上に広がる空が見えた。雲のせいで薄暗いが、日暮れにはまだ時間がありそうな空だ。
安堵は束の間だった。目の前に広がっているのは道路ではなく渓流だった。川幅は数メートル程で、左右を見回すが川上にも川下にも道どころか人工物の気配すらない。車の音に聞こえたのは川の流れが発している水音だったようだ。流れは速く、ところどころで翡翠の色をした深い淵に渦巻き、ずっと先までつづいている。これが糸魚川なのかもしれなかった。そうするとここは糸魚川市ではないのかもしれず、いずれにせよ駅からはずいぶん距離があるだろう。
岸には複数の足跡が残されているが、どれも獣のもので人が訪れた形跡はない。力が抜けてしゃがみ込むと入れ替わりに一振りの枝が跳ね上がり雪を落とした。熱エネルギーの変位だ。森を走り抜け移動したわたしのエネルギーも、熱へと代わってわずかでも雪を融かしたろうか。枝の下の乾いた地面へといざって行き腰を下ろすと、上着のポケットから滑り出た四角い画面が明るく光った。「圏外」の文字が浮かんでいる。拾い上げて掲げても変化はない。立てた膝に頬杖をつく。溜息と一緒に吐き出した息が白く上っていく。口のなかに残る血を洗おうと思いつき、両足に力を込めて立ち上がると水際へ向かう。大小の獣の足跡に混ざってスノーブーツの無骨な跡が残る。人の間にいるより獣の間にいるほうが落ち着くな、と勝手なことを思いながら流れに手を差し入れる。水は清冽でいま氷から溶け出したばかりのように冷たい。口をすすいで吐き出し、もう一度口に含んだ水を少しずつ飲み下すと、体の熱のなかを冷たい流れがすっと落ちていくのがわかった。わたしの中にも熱の裂け目がある。その裂け目に向かって水がまっすぐに落ちていく。
向こう岸で黒いものが動いた。気づくと同時に体がこわばる。向こうもわたしを認めたのか動きを止める。熊の親子とわたしは川を挟んで寸時見つめあう。音を立てるのもはばかられ、できるだけ静かに呼吸して唾を飲み込む。まだ出血がつづいているのか血の味がする。舌で口内を探り、裂けている個所を突き止める。そっと舌先で突くと、鈍い痛みとともに血の味が濃くなる。熊と相対している状況で出血しているのはまずいような気がした。

7

そのうちに熊の背後で木立が割れ、蹄のある義兄が姿を現した。その後ろにはさっきまで追いかけていた白い影が立っているようだった。わたしたちは見つめあった。だれも何も言わなかった。手を伸ばせば触れられそうに思えたが、川がわたしたちを隔てていた。わたしと、三頭の獣とあの人の影を。影が手を振る。別れを告げるようにも、こちらへ来るなと言っているようにも見えた。口のなかに溜まった血があふれ、唇の端から顎を伝ってこぼれる。血は体の奥底からあふれる熱そのままに温かい。どれくらいそうしていただろうか。いつの間にか蹄の偶蹄目も熊の親子も影も消えていた。日没が近いのか空が一層暗い。風が冷たい。クラクションの音が聞こえた。複数の人の足音にわたしの名前を呼ぶ声が混ざる。応えようと口を開くが声が出ない。意識が遠のく。知らない人たちがわたしを取り囲む。みんな口々になにか言っているが声は聞こえない。目の前が暗くなる。背中をさする手が温かい。もうだれの顔も思い出せない。

目を開けると小学校の教室のようなボード張りの天井から白いカーテンが下がっているのが見えた。たっぷりとした布はベッドのぐるりを回っていて、保健室みたいだ。室内は温かく、しゅんしゅんと薬缶の湧くような音がする。からだが重たい。カーテンの向こうでドアが開く。だれかが急ぎ足で入ってくる。口元を手で隠しているようなくぐもった声がする。
うん、夜には迎えに来られそうだって、ならよかった。いや、幸い怪我もないし無事だよ無事。でもなあ。どこにいたって、糸魚川の川原にいたんだって言うんだよ。そうだよ、糸魚川なんて川は無いのにさ。それに何度も……を探しにきたんだって話してたけど、たしか去年亡くなったんじゃなかったか。ああ、まあ急だったしなあ。……うん、とりあえず早くこっちに来てもらって、あとのことはそれからだな。
閉じられていたカーテンが揺れ、携帯電話を耳に当てたままの顔がのぞく。まばたきしながらこちらを向く視線を避けるように急いで目をつぶり寝たふりをする。薄目を開けて盗み見た足元に蹄はない。足音を忍ばせて近づいてきた義兄は、ベッドのうえのわたしの様子を窺うとまたすぐにどこかへ電話をかけながら出て行ってしまう。痩せて背の高い後姿は、あらためて見ると義兄(仮)とは似ても似つかない。わずかに開いたままのカーテンの隙間から電車の到着を知らせるアナウンスがかすかに聞こえ、ついで小気味いい機械音とともにドアが開く。旅行客たちの靴音、だれかを呼ぶ声。わたしはもう一度目を閉じた。糸魚川駅のホームに、軽やかな発車のメロディが明るく響く。
どこか上の階で水の流れる音がする。水栓が開かれ流れ出た水がシンクを叩き建物のなかを落ちていく。糸魚川の川辺を思い出す。どこにもない糸魚川の、もうどこにもいないあの人。川はまだあそこに流れているだろうか。またあそこを訪れれば、あの人は川を渡ってわたしの手をとるだろうか。顔が熱い。もう眠くてたまらない。口のなかの血の味はいつのまにか薄れているが、からだの奥からあふれる熱はとめどなく、まだわたしを生かしている。再び空気が揺れて、衣擦れとともにカーテンが開いた。

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