【第二回新潟文学賞受賞作掲載】ライトノベル部門佳作「キャンドルカフェの陽気な人魚たち」のあん

今年5月に決定、発表された第二回新潟文学賞の受賞作を大賞、佳作ともに掲載します。

ライトノベル部門佳作

「キャンドルカフェの陽気な人魚たち」のあん

人間は、この世界のうちで一番やさしいものだと聞いている。そして可哀そうな者や頼りない者は決していじめたり、苦しめたりすることはないと聞いている。(小川未明『赤い蝋燭と人魚』より)
絵コンテを見ながら、新人CMディレクターは溜息をついた。
C#1 海に向かって走るビキニの少女たち。
C#2 エメラルドグリーンの海。
C#3 浅瀬で波と戯れる少女。
……
C#8 ナレーション『真夏の日本海、私は熱い風を着た人魚!』
こんな子供騙しのキャッチコピーで、冷たい、暗い、寂しい、の三拍子が揃った日本海のイメージを払拭できるわけがない。北陸の海には、真夏でも熱い風なんか吹いていない。
このCMの企画者は、大手広告代理店社長の御曹司だ。彼の父親に忖度したのか、この企画にダメ出しした者は一人もいなかった。
「せめてロケには同行しろよ、御曹司」
スタッフのひとりが、六月の曇り空を見上げて愚痴った。
正社員ディレクター全員が断って、契約社員のアシスタントディレクターが、地元出身というだけの理由でディレクターに臨時昇格し、今回のCM撮影を押し付けられたのだ。
御曹司がCMキャラクターに起用したのは、ご当地アイドルの五人組「」だ。

3

「寒さなんか、へっちゃら。私たちはエチゴの雪娘」が、キャッチフレーズ。極寒の真冬でも超ミニスカで野外ステージに立つ。その健気さがヲタクたちの萌え~を誘って、そこそこの人気を博している。
「ごめん。もう一度、海に入って貰えるかな」
ビキニ姿を毛布で包んで寒さに震えている雪娘たちに、新人ディレクタは頭を下げた。
「はい、私たち、頑張ります」
雪娘たちは、毛布を投げ捨て、精一杯の笑顔で、岩場が点在する冷たい海に向かった。
「エリーネ先生、あれって何の撮影?」
がエリーネに訊いた。
エリーネは、鵜の浜海水浴場近くに在るキャンドルカフェ「ハウフル」の店長である。二十八歳のデンマーク人。副業で上越芸術高校の講師をしているので、同校三年生の健人は彼女を先生と呼ぶ。
「観光課のCMらしいわ。もっと暖かい時期に撮影すればいいのに」
「七月の海開きに間に合わせたいんだろう」
健人の向かいに座った尾神が言った。
、三十歳。公安調査庁の調査官だ。
「尾神さん、僕への相談って、昨日、海保のサーバーがハッキングされた件ですよね? それならもう、リモートで対処しました。サーバーの安全は担保しましたよ」
「さすが、IQ二百超えの天才少年」
「あら、大変だわ」
エリーネが、二人の会話を中断させた。
の形をした高さ五メートルほどの大波が、突然、浜辺近くに出現し、雪娘のひとりをグー握りして沖へ連れ去ろうとしている。
「誰かユミちゃんを助けて!」
他の雪娘たちが叫び声をハモらせた。
「みんな、下りて来て」
エリーネが、二階に声をかけた。
「どうしたの? 先生」
四人の女子が一階に下りてきた。彼女たちも上越芸術高校の生徒なので、エリーネを先生と呼ぶ。
最初に店を飛び出したのはイアーラだった。小麦色の肌と緑がかった長い髪。とてもキュートなブラジル人ボニータだ。
フランス生まれのメリージュ、グアム出身のシレナ、越後娘ユキの三人が、イアーラに続いた。
四人は、着衣を次々と脱ぎ捨て、海に向かって走った。健人と尾神は、彼女たちが最終的に如何なる姿で海に飛び込むのかエロい想像をしたが、彼らの期待は外れた。
「何であの娘たち、下に競泳水着を着ているんだ」
四人は海に飛び込むと、浅く潜水して手形波に向かった。
四つのV字型の波が、まるで敵艦に向かう魚雷のように、沖へと遠ざかる形波を追う。彼に追いついた四人は一斉に海中からジャンプして宙を舞い、手形波にケリを入れた。手形波がジャンケンのパー的に開き、握っていたユミちゃんを宙に放った。ユミちゃんをメリージュが抱きとめる。因みにメリージュは、長いブロンドの髪とサファイアブルーの瞳をもつ白人美少女だ。
十数秒の格闘の末、敗勢を悟った手形波は、中指を立てながら沖へと逃げて行った。
四人はユミちゃんを海面上に持ち上げ、岸辺まで運んだ。
砂浜に降ろされたユミちゃんは、雪娘仲間のもとに駆けて来た。溺れた様子もない。怪我もないようだ。
「皆さん、店に入って、温まって下さいな」
口をあんぐり開けて格闘シーンを見ていたスタッフたちに、エリーネが声をかけた。

4

「私は、店の外に出るよ。健人君はどうする?」
「僕は催眠キャンドルに耐性があるので、店内に居ます。カメラのデータを消したら、人魚像の所で、さっきの話の続きをしましょう」
エリーネが、大きめのアロマキャンドルに火を灯した。
十秒もしないうちに、店内にいたロケ隊全員が目を閉じ、コックリと頭を下げた。
「ユミちゃんは、浅瀬で転んだだけ。溺れてもいないし、怪我もしていない」
エリーネの声が店内に響くと、
「ユミちゃんは、浅瀬で転んだだけ。溺れてもいないし、怪我もしていない」
ロケ隊全員が、目を瞑ったまま復唱した。
彼らが気を失っているうちに、健人はロケ隊のカメラから手形波と四人娘の格闘シーンを削除した。
エリーネがアロマキャンドルの火を吹き消すと、ロケ隊全員は、一斉に覚醒した。
「ユミちゃんが溺れたと思って、心配したよ」
「私、浅瀬で転んだだけですよ。全然大丈夫ですから」
「何かあったんですか?」
エリーネがコーヒーを淹れながら、ディレクターに訊いた。
「ユミちゃんが、溺れそうになったんですよ」
「だから、私、浅瀬で転んだだけですから」
「浅瀬で溺れることもあるわ。気をつけないとね」
エリーネは小さく笑った。
人魚像の前で健人と尾神は話の続きをした。
海に背を向けてコンクリートの四角い台座に座る人魚像は、有名なコペンハーゲンのそれよりも一回り大きく、やさしそうな顔立ちをしているが、妙に哀し気な雰囲気を漂わせている。『赤い蝋燭と人魚』のヒロインをモチーフにしているからだろう。
「海保のサーバーに侵入したマルウェアだが」
「マルウェアではありません。犯人はサーバー本体が置いてある部屋に直接忍び込んだ。僕はそう思います」
「あの部屋への侵入は、怪盗ルパンでも不可能だよ。セキュリティーが半端じゃないんだ」
「忍び込んだのは恐らく魔物です」
「マモノ?」
「信じられませんよね。こんなトンデモ話」
「いや、信じるよ。魔物でも妖怪でも。君やハウフルのお嬢さんたちとの付合いが長いからね。驚きもしないし、不思議とも思わない」
「僕たちを魔物や妖怪と一緒にしないで下さいよ。まあ、似たようなものですけど」
「サーバーに取り憑くデジタル魔物か」
尾神は額に手をあて、溜息をついた。
コーヒーを飲み終えた撮影隊が、店から出て撤収作業を始めると、エリーネは四人のJKを集めた。
「貴女たち、あの、わざと逃がしたの?」
大波手は海の妖怪だ。海水を使って自らの姿を手の形に造形し、海難事故の誘発、海賊行為の幇助、漁業の妨害、水着女子の盗撮……等々、
海洋的悪事を働く邪悪な存在である。
「ええ、GPSを仕込んで逃がしました」
GPSと言っても、一般的な測位機器ではない。現代科学では説明できないスピリチュアル系測位デバイスである。
「さっそく、健人に奴のアジトを調べてもらいましょ」
海開きまであと一週間。

5

二階の工房では、エリーネと四人娘がアートキャンドルを製作中だった。このアートキャンドルの評判は上々だ。作り手が人魚なので火を灯すと波の音が聴こえる……という都市伝説が広まり、一本税込五千五百円もするのに、道の駅の店頭に並べた途端、数分で売れ切れる。
キャンドルの作り手が人魚だという都市伝説は事実だ。
エリーネと四人の女子は、正真正銘の人魚である。ただし、人魚と言っても、お伽噺に登場する半身がお魚的シルエットの海洋生物ではない。見た目は普通の人間と全く変わらない。ただ、身体能力が超人的で、例えば、海中を七十ノット(時速約百三十キロ)で泳ぎ、息継ぎ無しで十時間以上潜水できる。海洋学者は、彼女たちを「海棲人類」と呼ぶ。
健人の携帯が鳴った。
「健人君、事件だ」
現在、新潟の第九管区海上保安本部にいると、尾神は言った。
十六時に村上市の岩船港を出航したフェリーが、粟島到着予定時刻の三十分前に行方不明になった。その直後、SDと名告る者が犯行声明を出し、乗客乗員あわせて約百人の身代金、仮想通貨五十億円分を要求した。巨大なウミヘビに巻きつかれたフェリーを見たという漁船員の目撃証言が唯一の手掛かりだ……と、尾神は早口で事件の説明をした。
「君たちの力を貸してくれ」
「承知しました」
健人は二階に上がり、工房の奥にある量子コンピュータの電源を入れた。
人魚たちも、ディスプレイを覗き込んだ。
「これ、に着けたGPSの信号よね」
エリーネが、ディスプレイ上を移動する赤い点を指で追った。
赤い点は粟島沖から佐渡に向かっている。
「大波手がフェリーをシージャックしたのね」
シレナが言った。シレナは、人魚には珍しく、栗色の髪をおさげにしている。日本に留学する前は、グアムでファイヤーダンスのダンサーをしていた。蝋燭の焔であろうが焼夷弾の猛火であろうが、火であれば如何なる火でも自在に操る超能力の持ち主だ。
「ええ。こいつとでね」
ユキがスマホの画面を皆に見せた。真っ赤な巨大ウミヘビの画像には「イクチ」という文字がスーパーされている。
イクチは長さが三百メートルもあるウミヘビの妖怪だ。船をぐるぐる巻きにして沈没させるという伝説がある。
「この海の色、何か変だな」
健人が、画面をサーモグラフィーモードにした。佐渡沖に真っ黒く染まった水域がある。
「アンカイかしら」
は魔物たちが隠れ棲む深海の魔域だ。
「日本の闇海は千二百年前、有名なお坊さんが封印したって聞きましたけど」
誰かが封印を解いたのだろうと、エリーネが言った。
「闇海? すっけんとこに逃げらいたら、もちゃつけらて(そんなところにに逃げられたら、厄介だわ)」
ユキが越後弁で言った。
ユキは、限りなく澄んだ黒曜石のような瞳と、漆黒の長い髪をもつ美しい人魚だ。のDNAをひいているせいか、若干十七歳なのに妖艶な雰囲気がある。シレナとは逆に、触れたものを瞬時に凍らせる雪の女王的超能力をもっている。
「に逃げられる前に、フェリーを取り返しましょ。ミリオンで行けば間に合うわ」
ミリオンは、岩船の秘密造船所で建造されたウミガメ型潜航艇である。航行速度は百七十ノット。最大潜水深度は三千メートルだ。
六人は、ハウフルの地下にあるミリオン発進基地に直行した。
発進後三十五分、ミリオンのレーダーは佐渡沖を航行するフェリーの船影を捉えた。
イクチがフェリーの船体をグルグル巻きにしている。

6

「麻酔魚雷を一発、イクチさんにお見舞いしてあげようか」
「ウィ、マァム」
フランス人魚のメリージュが照準をイクチに合わせ、魚雷発射ボタンを押した。
ウミガメ型潜航艇ミリオンの口がパカッと開き、一発の注射針つき魚雷が発射された。数秒後、麻酔を打たれたイクチは、緩んだロープのようにフェリーからスルスルと抜け、海に流されていった。
「が激怒してるわ」
フェリーと並航していた大波手が、と化して、ミリオンに突撃してきた。
「あいつは私たちが始末しますね」
四人娘があっという間に服を脱ぎ捨て、潜水艇のハッチを開けて外に出た。服を脱いだと言っても、ちゃんと下に競泳水着を着ているので、エロい心配は無用だ。
ブラジル人魚のイアーラが拳骨大波手をハシッと受け止めた。
イアーラは、全海棲生物中最強の力持ちである。リオデジャネーロのコパカバーナビーチに迷い込んだ鯨の尻尾を独りで引っ張って三十海里沖に返したというレジェンドがある。
ユキが、妖怪大波手を瞬時に凍らせた。
かさず、氷の彫刻と化した大波手を、メリージュが手刀で粉々に割る。
無数の氷片になった大波手に火炎人魚ユキが猛火を浴びせ、手妖怪大波手は、あっという間に蒸発した。
エリーネは乗客乗員全員を船内の一室に集め、持参した催眠アロマキャンドルに火を灯した。
八月二日の夕刻、出雲崎にある会員制日本酒バー『』のカウンター席に、尾神力男と岩下が座っていた。
「SDが魔物だと健人君が言うのなら、魔物で間違いないでしょう」
心に沁み入るような優しい声……尾神は岩下と話す度にそう感じる。声だけではない。長身で均整のとれたアスリート体形。全ての女性を夢見心地にさせる美しい顔立ち。岩下道丸は公安調査庁一の美形男子だ。も、これ以上なく優しい。さぞかしモテるだろうと皆が思う。だが岩下には浮いた話がない。
彼は外見も性格も、イケメン過ぎるのだ。世の女性はみな、自分は彼に相応しくないと委縮して、岩下に近づこうとしない。
岩下にも、女性との付合いを避けている節がある。関わった女性を不幸にした。彼には、そんな過去があるのかもしれない。
「SDについて、山本さんの御意見は?」
徳利を鍋に入れ燗を付けている初老の店主に、尾神が質問した。
実は、山本も公調の調査官だ。日本酒バー店主は仮の姿である。
「酒どころの越後には呑兵衛の魔物が大勢いますよ。SDも、その一人でしょうね」
山本は、岩下を見て小さく笑った。
尾神の携帯が鳴った。
「えっ! 長岡の花火大会?」
「どうしたんですか?」
「また、SDだ」
花火の三尺玉にクラスター爆弾を仕込んだ。要求を呑まないと、それを打上げる。百億円を二十分以内に用意しろ……という脅迫電話を、大会の主催者が受けた。
「花火大会の観客三十万人を今から避難させるのは絶対に無理だ。それに、二十分以内に百億円なんか用意できるわけがない」
「受け容れ不可能な要求……。奴の目的は金ではありませんね」
「と、言うと?」
「大量殺人が目的でしょう。奴は恐らく、殺人依存症の魔物です」

7

「とりあえず、天才少年に電話してみます」
尾神は、健人の番号をプッシュした。
「健人君、君、今何処だ」
「長岡です。花火の打上げ現場です」
「君は、何で、そんな極めて都合の好い場所にいてくれるんだ」
火炎ヲタクのシレナが花火の打上げを手伝うことになり、ハウフルの全員が見学に来ているのだと、健人は言った。
尾神はクラスター爆弾の件を健人に伝えた。
「わかりました。直ぐに、打上げ筒を確認します。SDは手下を使って打上げをさせるはずですから」
「SDの手下を見つけ出して、打上げをやめさせるのよ」
エリーナが、四人の人魚たちに指示した。
信濃川河畔の打上げ現場では、何の問題も無しという偽の無線連絡を受けた花火師たちが、静かに打上げ筒を見守っていた。
「めっけたぁ。みてら(見つけた。猫又みたいね)」
越後人魚のユキが、河川敷の一番端にセットされた打上げ筒を指差した。
猫又は尻尾が二又に分かれた体長五尺の大化け猫だ。猫又は、火の玉に化けて人を威す。その程度の芸しかない低級妖怪だが、今回は火の玉つながりで、三尺玉爆弾打上げの仕事を任されたのだろう。
「早くとめないと。もう時間がないわ」
猫又は、今にもクラスター爆弾を打上げようとしている。六人は駆けだした。
間に合わなかった。六人が着く寸前、火の玉化した猫又は口から火を吐いて打上げ筒に点火した。笛音を響かせて、三尺玉クラスター爆弾が天空に上っていく。
「イアーラ、お願い!」
シレナがイアーラに向って突進した。剛力人魚イアーラはシレナの身体を受けとめ、勢いをつけて天空に放り上げた。
シレナは超音速ミサイルのように天にのぼり、たちまち、三尺玉クラスター爆弾に追いつくと、それにタッチして、呪文を唱えた。
「はい、いい子だから、爆発しちゃ駄目よ」
極めて簡潔明瞭な呪文である。
三尺玉は不発のまま、信濃川のに墜落した。シレナは火炎操作のエキスパートだ。爆弾を不発化することなど、朝飯前である。
猫又は打上げ筒の傍で、しばらく火の玉になっていたが、皆が無視するのでイヂケてしまい、火力をだんだんと弱めて、終に鎮火した。焼け跡で、子猫サイズの猫又が悲しそうに鳴いていた。
「エリーネ先生、この子、飼っていい?」
仔猫の猫又は、メリージュに抱かれて、ゴロニャンしている。
シレナをお姫様抱っこした健人が、信濃川河畔を歩いて来た。
「シレナ、健人がいなかったら、あなた地面に墜ちて死んでたわよ。パラシュートも着けないで空に上がったら駄目じゃない」
花火の打上げ場にパラシュートを持参する人魚など、いるわけがない。

八月末日の早朝、出雲崎地下に在る指令室では、岩下、尾神、山本の三人が、大型ディスプレイを睨んで座っていた。
ディスプレイには、深海の様子が写っている。潜航艇ミリオンのカメラ映像だ。
「が見えたわ。入り口はどこかしら」
闇海は文字通り、暗黒の海域だ。ミリオンの前照灯の光を、ブラックホールのように完全吸収している。
「入り口は見当たりません。エリーネ艇長」
海中探査ソーナーの3DCGを見ていた健人が言った。
「仕方ないから、入り口をつくりましょうか。一度使ってみたかったのよね」

8
エリーネが、無茶を言った。一八式改は海自から譲り受けた最新型魚雷だ。
「ウィ、マァム」
メリージュが照準を闇海の中央に合わせ、魚雷発射ボタンを押した。パカッと開いたウミガメ型潜航艇ミリオンの口から、一発の魚雷が発射された。魚雷は、闇海に吸い込まれた。そして、数秒後、
「爆発音を確認」
雷撃を受けた闇海は、水槽に垂らした墨汁が希釈されるように、呆気なく消滅した。
「えっ?」
あまりにも呆気なかった。
「健人さん、私たちの仮説は正しかったようですね」
「ええ、山本さん」
「君たちの仮説って?」
「闇海は、これですよ」
山本が、USBメモリーを手に持って尾神に示した。
「闇海はただのストレージメディアです」
闇海は、データ化されされた妖怪たちを保存するメモリーだと、山本は説明した。
「暗号化?」
「封印とも言いますけどね」
「今の雷撃で、妖怪のデータは破壊されたのですか?」
「いえ、破壊されたのはの闇海だけです」
今回の作戦を事前に知ったSDが、闇海に保存されていた妖怪データを移動させたのでしょう……山本は、そう続けた。
「今回の作戦を知っていたのは、ここに居る三名と潜航艇の六名だけですよね」
「今、ここには貴方と私の二人しかいませんよ。尾神さん」
何時の間にか、岩下の姿が消えていた。
「SDの正体は岩下君で間違いないようですね。彼は妖怪をして闇バイト的に使い、怪異テロを行わせていたのでしょう」
山本は悲し気な顔をした。部下の岩下を信じていたのだろう。
「僕の居場所が、よく分かったね。健人君」
岩下の穏やかな顔を、夕日が照らしていた。
「貴方の潜伏先は恐らくだろうと、山本さんが仰っていました。岩下さんが、この世で一番、想いを寄せている場所だからと」
国上寺は、燕市に在る県内最古の名刹だ。
岩下はスーツ姿で、の上に座っていた。千三百年ほど前、国上寺の開祖泰澄が雷神を封じた石である。
「君たちは、僕を退治しに来たのか」
「いえ、確かめに来たんです。あのやさしい岩下さんが、怪異テロの指示役だったなんて、僕にはまだ、信じられません」
「僕がやさしい? とんだ見当違いだ。今、僕の正体を見せてあげるよ」
岩下は、雷神縛石の上に仁王立ちした。
スーツやシャツをズタズタに裂きながら、彼の身体は巨大化し、穏やかだった表情は怒気に満ちた形相に一変した。因みに、巨大化する魔物は、常に高伸縮率の虎皮パンツを穿いているので、変身する際、フリチン姿を世に晒すことはない。心配は無用だ。
頭に角の生えた身の丈九尺の赤鬼が、健人の目の前に出現した。
赤鬼に変身した岩下は健人の身体を抱えると地面を蹴って宙に浮き、天空に昇った。
国上寺上空五百メートルほどの空中で、岩下は健人の身体を地上に向けた。

9

「見てごらん」
人魚たちが、無数の妖怪に囲まれている。
「、、おばりよん、オボ、……こいつらは皆、人に裏切られ絶望して、怨念と憎悪の魔物となった連中だ。こんな連中を見ても、君は人のやさしさを信じられるのか」
「裏切りに満ちた世の中だからこそ、人のやさしさが唯一の救いなのだと僕は思うのです。人は、たとえ不幸と絶望のどん底に在っても、他の人にやさしくすることによって自分の存在を肯定できるのではないでしょうか」
「君は偽善者だ。死んで悟りたまえ」
岩下は、健人の身体を宙に放り投げた。
健人は真っ逆さまに墜ちて行く。地面が間近に迫った。とたん、健人は爆撃を終えた急降下爆撃機のように身体を翻し、天高く飛び上がる
と、空宙でホバリングし、赤鬼の岩下と対峙した。
「健人君、君も空を飛べるのか」
「ええ、僕も貴方と同じ異世界からの転生者ですからね」
「君は確か、十日町出身だったな。ということは、君は縄文世界からの転生者だな」
「ええ、さん」
岩下こと酒呑童子は「ふんっ」と笑い、カッと開いた口から火を吐いた。
「君を黒焦げにしてあげるよ」
健人は、その炎を避けなかった。平気な顔をして、全身に猛火を浴びている。
「僕は縄文の戦士ですからね。この程度の火炎エネルギーなど屁とも感じません」
「それなら、これはどうだ。十万ボルト!」
酒呑童子はカメハメハポーズをして、全身に漲らせた電気エネルギーを、健人に向って一気に放電させた。
「ピカチュウのパクりですか」
健人は、電気エネルギーを全身に浴び、ピカピカ輝きながら、平気な顔で笑っている。
「僕には蓄電能力があるんですよ。しかも、蓄えた電気をこんな風に使えるんです」
健人は、蓄えた電気エネルギーを酒呑童子めがけて放った。
酒呑童子は高出力の起電能力があるくせに、耐電能力は低いらしい。彼は感電し、数秒間、動きをとめた。
「ウキちゃん、今だ!」
国上山の山頂で酒呑童子にの照準を合わせていた異獣のウキちゃんが、そのトリガーを引いた。「雪炎」は十日町市笹山遺跡で出土した火焔土器の愛称である。雪炎は縄文世界の最先端兵器だ。戦闘系SFでお馴染みの波動砲に似た兵器である。
渦巻き状のエネルギー流が酒呑童子を呑み込むと、彼は気を失い、たちまち、身長百七十八センチの岩下に戻った。高伸縮性虎皮パンツ一丁の情けない姿で、墜落してゆく。
「ピエちゃん、岩下さんを頼む」
二人の格闘を遠巻きに見ていたイヌワシが、急降下して、岩下の腕を鷲掴みし、彼を軟着陸させた。ピエちゃんは健人の仲間でイヌワシ系の天狗である。
健人を地上で待っていたのは、がっかり顔の人魚たちだった。
「妖怪は?」
「山本さんのお陰で、何もせずに退散したわ」
人魚たちは恨めしそうな顔を山本に向けた。妖怪との戦闘を楽しみにしていたのだろう。
「後で供養してあげると約束したら、大人しく退散してくれました」
妖怪は貴重な観光資源だから殺してはいけませんと、山本は笑った。
「本当にやさしい人ですね。良寛様は」

10

「健人さん、それは言わない約束ですよ」
山本は、人差し指を唇に当てた。
山本が転生者だったことは、健人と岩下しか知らない。
「ウキちゃんも、ありがとうな」
ウキちゃんは異獣と呼ばれる妖怪だ。猿に似た風貌をしている。今回、ウキちゃんは、十日町から持ってきた雪炎の砲撃手として働いてくれた。
岩下は、五合庵に寝かされていた。
国上寺の境内に在る五合庵は、むかし、越後の名僧良寛が二十年近くを過ごしたである。
「山本さん、僕は再た何か悪事を働いたのでしょうか」
岩下が、目に涙を浮かべた。
「心配しなくてもいい。君は、この世界に転生してから今まで、誰も傷つけていない」
国上寺の稚児で絶世の美少年だった外道丸に恋焦がれるあまり、自害して果てた少女がいた。彼女の怨念が、彼を酒呑童子に変身させたという伝説がある。
彼は現代に転生し、岩下として穏やかに暮らしていたが、一年前、半升庵地下のAIが、間違って少女の怨念を封じていたパスワードを解読してしまった。少女の怨念は一千年の時を経て、再び岩下に取り憑き、彼を心の暗黒域に堕としたのだ。
「少女の怨念は私が消除したから、もう君が酒呑童子になる心配はない」
良寛の転生者、山本が、岩下の涙を拭いた。
半年後、二月下旬の土曜日、健人と五人の人魚、公調の調査官三人は、無数のキャンドルがつくる幻想的な風景の中にいた。
『灯の回廊』は、上越市内沿道の雪壁に十万本のキャンドルを灯す一大イベントだ。
「私は、この風景が一番好き。自分がやさしい人間なのだと信じさせてくれるあたたかい風景だから」
エリーネの言葉に全員が頷いた。
仔猫又が、あちこちと駆け回り、消えたキャンドルに火を灯していた。

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