開戦から83年、真珠湾後の現実を見据えた山本五十六の書簡、福島県立博物館で初公開

開戦から83年で初公開された山本五十六の書簡
太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃の直後に、連合艦隊司令長官・山本五十六が妻・三橋禮子の実家(福島県会津若松市)へ送った二通の書簡が、2025年7月から福島県立博物館で公開されている。
三橋家は、もともと会津藩士・三橋康守の家系で、禮子はその三女にあたる。公開された書簡はいずれも、当時の三橋家当主・智(とし)氏に宛てられたものである。
山本五十六は1884年に新潟県長岡市で生まれ、日露戦争では日本海海戦に参加。アメリカ駐在武官としてハーバード大学で学び、のちに欧米との海軍軍縮条約交渉にも加わった。1939年に連合艦隊司令長官となり真珠湾攻撃を指揮したが、1943年、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され、戦死した。
今回公開されたうちの1942年1月13日付の手紙には、真珠湾攻撃の成功で日本中が沸く中、「本格的な戦いはこれからであり、いっそうの用心と奮励が今日から何よりも大切である」と記されている。国力差を踏まえた冷静な見通しが示され、戦争に対する現実的な姿勢がうかがえる。

筆遣いからは山本の人柄も窺えそうだ
もう一通は同年4月に出されたもの。智が会津若松市飯寺にある山本帯刀を含む長岡藩士の供養碑(手紙では「帯刀墓」と記載)を代参したことに対して、感謝を伝えている。「この戦争が終わった後、もし私が生きていたらぜひ墓参りをしたい」とも記されており、山本帯刀は五十六が家督を継いだ山本家の先祖で、戊辰戦争の際に当地で命を落としたと伝わる。

福島県会津若松市飯寺にある長岡藩士殉節之碑

新潟県長岡市の長興寺に並ぶ山本帯刀(左)と山本五十六の墓(右)
実際、筆まめで知られ、家族や部下の家族に数多くの書簡を残した山本だが、今回の書簡については、地元の郷土史研究会の会報『会津史談』に一部が紹介された程度で、ごく限られた郷土史家しかその存在を知らなかった。
手紙の所蔵者が同博物館を訪れた際、長岡市から移住してきた同館の筑波匡介主任学芸員と知り合い、書簡のことを紹介。さらに同館の栗原祐斗主任学芸員が所蔵者から丁寧に聞き取りを行いながら史料を翻刻し、7月から福島県立博物館で開かれた「私たちの戦争体験―アジア・太平洋戦争終戦80年」展で初めて公開された。

書簡を「極めて貴重な資料」とする栗原祐斗主任学芸員
また、山本の郷里・新潟県長岡市で山本五十六記念館の管理運営を担うNPO法人山本元帥景仰会の樋口栄治さんは、「手紙は奥様の実家の弟宛てであり、心から書かれたものだ。山本五十六の人柄や覚悟が感じられる、非常に貴重な手紙である」と語った。
展示は2025年9月15日まで行われており、山本五十六関連の資料のほか、福島県内の軍人が家族に送った手紙や軍服、戦時ポスターなど約150点が公開されている。

書簡の存在に「感動した」と語る樋口栄治さん

150点もの展示が並ぶ
(文・写真 湯本泰隆)