【新潟最強母さん出陣】国スポ柔道女子無差別級の山田美貴選手、新潟が生んだレジェンドが48歳にして蘇る
輝かしい競技人生と挫折
9月28日から熱戦が繰り広げられている第79回国民スポーツ大会「わたSHIGA輝く国スポ2025」(滋賀県を中心に開催)は佳境を迎えているが、10月5日には柔道女子(団体戦)に注目のレジェンド選手が出場する。
山田美貴選手(新潟よつば学園教員)は4人の子供(長女、長男、次男、三男)の母親。現在は新潟よつば学園で教員をしながら、競技を続けている。
現在は地元の柔道教室で子供たちを指導しながら柔道にはゆったりとしたスタンスで取り組んでいるが、もともとは新潟県が生んだレジェンド級の柔道家である。年代で言えば国民栄誉賞を受賞した田村亮子選手の1学年下に当たる。
旧西蒲原郡黒埼町の出身。中学校2年生の時に柔道を始めたが、素質はすぐに開花した。中学校で県のチャンピオンになり、東京学館新潟高校(新潟市)へ進学。1994年の全国高校選手権を制し、日本代表として出場したフランス国際で優勝に輝いた。日本女子柔道界の次世代を担う存在として一躍注目された。
高校卒業後に国立埼玉大学に進学。在学中に1999年の全日本選抜柔道体重別選手権大会女子70キロ以下級で優勝、アジア大会2位など国内トップ選手の地位を築いていった。
卒業後はコマツに所属。2000年の全日本選抜体重別で2連覇を果たすが世界選手権のメンバーには選ばれなかった。同年のフランス国際では世界チャンピオンを破り注目されるもその後に敗れ7位。翌年の全日本選抜体重別で3連覇を果たし、シドニー五輪代表の最右翼と目されていた。しかし五輪代表には選抜体重別の決勝で下した相手が選ばれた。当時はこの選考が物議をかもした経緯もある。なお選ばれた選手は五輪で金メダルを獲得した。
世界王者級の実力を持ちながら、さまざまな事情に翻弄された競技人生。失意の彼女は、2003年にコマツを退社し、競技人生の一線を退いた。
苦境でわが子の声援が後押し
その後、彼女は故郷の新潟に戻り高校の教員になる。柔道部の顧問などを務めたこともあったが、自身では競技に対し真剣に向き合うこともなく、なんとなく国体予選に出場したり、しなかったりの繰り返しだったという。ラグビーなど他の競技に挑戦したこともあったが、かつて自身が頂点を極めた柔道ほど熱くなれるものはなかった。
新潟に戻ってから結婚し、前述のとおり4人の子宝に恵まれた。教員の仕事と子育てで、競技からは完全に遠ざかったが、その分、柔道への見方は気が楽になったという。そのうち長男と次男が柔道を始めるようになった。
「もちろん子供たちは私の現役時代を全く知らないわけですが、それでも柔道の競技に取り組んだ身としては中途半端な姿を見せるわけにはいかないと思い、真剣にトレーニングを再開しました」(山田選手)。柔道を始めた我が子に一流の柔道家の背中を見せたい、その思いで山田選手は再び競技に向き合うこととなった。
2025年7月、48歳で臨んだ第79回国民スポーツ大会新潟予選。制限時間内に決着がつかず延長戦に突入。相手は山田選手より一回り以上若く、スタミナ勝負になれば明らかに難しい展開だった。
「本当に苦しい戦いでした。疲労困憊の中で、子供たちが応援する声が聞こえたのです。いえ、正確に言えば聞こえたような気がしただけかもしれません」(山田選手)土壇場で見事相手を振り切り、山田選手が女子無差別級の新潟代表に輝いた。
国民スポーツ大会では団体戦のみが行われ、各階級の予選優勝者で代表チームを構成する。山田選手は「代表として恥ずかしくない試合をしたい。ただ現役の時は決して許されなかった“楽しみながら試合をしたい”という気持ちもあります」と話す。
かつて頂点を極めたレジェンド柔道家が、挫折の末に一線を退き、家族の応援に支えながらの競技復帰。しかも競技者としては48歳という大ベテランの域。10月5日の試合は大いに注目したい。