【謙信には妻がいた?!】上杉謙信「生涯独身」像を揺るがす新研究、講演会で関係史料を紹介

講演する新潟県上越市公文書センター所長の福原圭一氏

戦国武将・上杉謙信には妻がいた可能性が高い——。長年定説とされてきた「生涯独身」像に、大きな修正を迫る最新研究が新潟県上越市で示された。春日山城跡保存整備促進協議会主催の講演会「新説 上杉謙信をめぐる女性たち〜最新の研究からみる上杉謙信の家族〜」がこのほど同市の上越市埋蔵文化財センターで開かれ、同市公文書センター所長の福原圭一氏が、近年「発見」された史料をもとに謙信の妻と母について話した。会場には150人を超える市民らが集まり、講演は2時間にわたり行われた。

講演冒頭、福原氏は「歴史学は史料に基づいて組み立てる学問であり、史料の裏付けと、他者による検証が可能なことが必要」と語り、近年SNSなどで広がる歴史的言説の中には裏付けのないものも多いと指摘した。その上で、「今回紹介する内容は、従来知られていなかった史料の発見により再検討が進んでいる部分である」と述べ、謙信をめぐる女性の最新成果を示した。

「越後府中御新造」——史料に現れた謙信の妻

謙信に妻が存在したことを示す一番の根拠として、福原氏が提示したのが、2008年に初めて存在が確認された「越後過去名簿」である。高野山の宿坊に伝わった記録で、戦国時代の越後の人々が依頼した供養の内容が書き連ねられている。この中に「永禄2年(1559)」「越後府中御新造」と記された人物が登場する。府中とは戦国時代に越後国の中心都市であった「府内(現在の同市内直江津地区周辺)」を指し、 “府中様”といえば事実上の越後国主を示すと考えられる。該当時期には謙信以外に該当者はおらず、「御新造」は武家の妻女を指すことばであることから、謙信の妻を意味すると判断されるという。

“新そう”と呼ばれる女性の存在 謙信の身代わりに

さらに福原氏は、上杉謙信の書状に見える「新そう」という人物に注目した。永禄4年(1561)6月の書状には、当時関東にいた謙信が、家臣に対し「新そう」を呼び寄せるようにと命じる文言が確認できる。以前から知られていたが、これまで研究者の間では注目されていなかった。ところが「越後過去名簿」が見つかったことにより急浮上した。この書状の内容から、「新そう」は「越後過去名簿」の「御新造」と同じ人物であり、謙信の妻だと読み替えることが可能になったという。

謙信はこの時期、関東出兵中で越後を長期不在にしていた。越後に帰還することを望む謙信に対して、関東の国衆たちは謙信が帰国後再び関東に戻らないのではないかと不安を抱き、人質を求める動きを見せていたとみられる。書状はその交渉過程を示すもので、謙信の代わりに「新そう」を越後から呼び寄せ、関東に滞在させる案が検討されていたことが読み取れる。「この「新そう」が謙信の妻ならば、関東の国衆にとって最も価値のある“人質”であった」と福原氏は説明した。

さらに別の文書には、「文台や筆台、短冊箱」を“かミ”へ誂えたという一節がある。「かミ」は男女の別なく「主人」を指す語であるが、この品々が「和歌などをたしなむ女性向けの調度品であった可能性がある」とし、「新そう」の存在と合わせて解釈が進んでいるという。

「生涯独身」像はなぜ広がったのか

従来、謙信には妻がいなかったとされてきた背景には、一次史料に妻の名が明記されてこなかったこと、江戸期の軍記物による人物像が広まり、それが長年の通説として浸透したことがある。

しかし、近年の史料調査と文書学の進展により、謙信周辺の女性関係について新たな像が浮かび上がりつつある。福原氏は「史料の読み直しを積み重ねることで、謙信の新たな顔が見えてくる。上杉謙信が市民のみなさんにとって、もっと身近な存在になるように研究を続けたい」と語った。

会場には150人を超える市民らが集まり、講演は2時間にわたり行われた

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