連載 新潟湊を支えた商家 第二回 齋藤家

海運、銀行などで新潟経済支える

齋藤家の接客部分が新潟市に寄贈された「燕喜館」。

新潟市に居を構え、新潟の三大財閥の一つとして数えられた商家。それが齋藤家だ。政財界で活躍した一方、その歴史は謎で包まれたことも多い。齋藤家の事業や邸宅の使い方などから、齋藤家が新潟に貢献してきた歴史を紐解く。

齋藤家のもともとの先祖は、越前国三国港(現在の福井県)から新潟に移住したと言われている。江戸時代に家業の清酒問屋から事業を発展させ、明治時代に入ると北前船の経営に本格参入。海運業として現在の佐渡汽船にあたる「越佐汽船」を設立。佐渡、酒田、北海道就路などを就航させ、大正期には国内5大汽船会社に数えられた。

また、そこで得た利益で土地の集積と有価証券投資を行い、新潟における経済の近代化に大きく貢献。新潟商業銀行(現在の第四銀行)や新潟興業貯蓄銀行など銀行経営にも携わった。明治時代には新潟県で石油採掘が活発になったが、当時の製油には硫酸が不可欠だったことに対応、化学工場として新潟硫酸も設立するなど、常に時代の流れやニーズをつかみ、新たな事業に進出していったといえる。伊藤家など有力地主や商家と姻戚になり、系列企業に親族を送って地方財閥としての体裁を整え、当主は代々喜十郎を襲名した。

特に齋藤家を発展させたのが、4代目の齋藤喜十郎だ。1915年には衆議院議員、25年には貴族院議員となり、実業家、政治家として新潟の近代化に貢献。経済界で交友関係も幅広かった。その時に建てられたのが、新潟市中央区西大畑町にある、旧齋藤家別邸。本邸は徒歩15分ほどの所にあったとされ、別邸は著名人を招いておもてなすゲストハウスの位置づけだった。別邸の特徴が、「庭屋一如」の考えだ。著名な庭師と建築士が手掛け、庭園と建物を一体のものと考えで室内から庭園への眺望を楽しむ造りとした。蒸し暑い夏を過ごすために敷地の中央に池を大きくとったほか、各部屋から異なった庭園の景色を楽しめるように工夫されている。まさに齋藤氏が客人にくつろいでもらうための想いが込められており、帝国ホテルやホテルオークラを設立した大倉喜八郎や内閣総理大臣の若槻礼次郎も訪問した。

4代目齋藤喜十郎

ただ、43年に新潟銀行がライバルの第四銀行に合併されると、齋藤家は銀行業から大きく後退。別邸は連合国軍に接収され、司令官公邸として使用された。地主でもあった齋藤家は戦後、所有する多くの田畑を農地改革で失い、50年に5代目喜十郎が死去。その際に多額の相続税が課せられ、戦後の混乱で別邸を維持するのが難しくなる。そこで別邸を購入したのが、建設会社・加賀田組社長の加賀田勘一郎。文化財の保護に尽力し、川端康成や田中角栄も訪れている。2005年に加賀田組から離れると、市民の間で保存に向けた運動が行われた。新潟市民の声を受けて09年に新潟市が公有化。12年には一般公開され、国の名勝にも指定されている。

現在は85人ほどのボランティア一人ひとりが自分の専門知識を生かして齋藤家の歴史などを伝え、和装で案内しよ齋藤家の歴史を伝えるボランティアグループうというグループも立ち上がっている。水と土の芸術祭でも展示会場の一つとして県内外の観光客を楽しませた。齋藤家ゆかりのものとしては、新潟市の白山公園内にある「燕喜館」も、齋藤喜十郎氏の邸宅の接客部分が新潟市に寄贈され、一般公開されたものだ。

政財界で存在感を発揮し、来客へのおもてなしにも力を入れた齋藤氏。その遺産は公共物として市民のものになっている。齋藤氏が来客に心配りをしたように、新潟市民にとって大切な人にくつろいでもらう場として活用していくことが期待される。

四季や見る角度によって多様な楽しみ方ができる旧齋藤家別邸。