連載 新潟湊を支えた商家 第三回 田代家

昆布・干物などの海産物商として発展

新潟機舩底曳網組合から贈られたとみられる豪華な硯

田代家は、江戸時代半ばに山田村(現在の新潟市西区黒崎付近)から新潟市に出てきたことに始まる。
多くの新潟の商家で見られたように北前船を経営し、明治時代には北洋漁業に進出。
その後、わかめや昆布、のりなどの海産物商として発展したのが特徴だ。

北洋漁業家の田代三吉は1856年、三条市の五十嵐金吾右衛門の三男で田代家に婿養子として入り、先代三吉には息子がいたにも関わらず1895年に三吉を襲名。
樺太北部で2漁場の経営を開始。函館での買い付けを行っていたという。

1898年に結成されたサハリン(樺太)島漁業組合にも新潟から有田清五郎、関矢儀八郎、小熊幸治郎とともに参加し、翌年には3漁場を経営。
この後はロシアの規制が強化されたために、日露戦争までは買魚が中心だった。
日露漁業協約が締結され露領水産組合が結成されると、田代は新潟支部常議員に就任。
シベリア出兵までの最盛期で、新潟支部の2割を越える漁獲量を誇った。
全体的に不良だった年以外では漁獲が100万尾を下ることはなかったという。

大規模輸送ルート確保

1919年時点での所有船舶は12隻。
全てを新潟には置かず、函館に留め置きしている船もあった。
田代自身は漁場に出かけず、漁場から電報を受ける一方、全国からサケマスの注文を受けて漁獲した魚を函館、新潟、横浜など、どこの港で水揚げをするかを指示。
このころの販売先は新潟県全域と北海道、東北や関東、東海地方にまで及んでいた。
鉄道が今ほど全国につながっておらず、自動車はまだ珍しかった時代にこれだけの輸送ルートを確保していたのは異例で、販売力に裏打ちされた規模拡大だったといえる。
庄内電気鉄道、新潟電鉄の取締役に就任し、市会議員や新潟商業会議所特別委員もつとめ、所得面でも新潟の名士の一人となっている。

田代家には、1922年に集めた漁夫の元帳が残されている。
前貸し金の金額も記入されており、211人への前貸し金は1万9204円。今の貨幣価値では1億円に近く、利子をつけて回収するにしても規模の大きさがみてとれる。
その後も親族で漁場を経営。
現在の当主にあたる田代早苗さんは「祖父・一郎は毎晩のように、カムチャツカ半島での想い出を話してくれた」と語る。

田代早苗氏。
1962年生まれ。新潟中央高校、東京造形大学卒業。鹿島建設北陸支店などでの勤務後、現在は新潟市中央区柳島町の「ぽるとカーブドッチ」で勤務。ウェイトレスを務めている。現在の田代家の当主

1960年代半ばまでは新潟市中央区上大川前通4番町で海産物を商いとしていたが、その後早苗さんの父の代で廃業した。
1995年に田代家の古い母屋、土蔵の取り壊しに伴い、当時の資料3万点あまりを新潟市に寄贈。
これが「田代家文書」として、当時の北洋漁業の様子を知る貴重な資料になっている。

現在も田代家は新潟市中央区上大川前通4番町に構え、親族が「新潟ガレージ」を経営。早苗さんは、信濃川のほとりに立地する旧第四銀行住吉町支店の中にある「ぽるとカーブドッチ」に勤務している。
ウェイトレスとして食事やワインを提供して、来店客をもてなすとともに、新潟や港の魅力創出に一役買っている。
知人の人形展に出かけた時に求人を見つけたのがきっかけというが、「働いてみると楽しい。美しい建物の中で美しい夕焼けを見て、佐渡汽船が出ていくのを毎日見る。日々飽きることなく美しい港の風景を眺めながら生活している」と語る。

田代家の歴史がそうであったように、今でも海や港の近くで働いているのは不思議な縁だ。
同店は明治から昭和を代表する洋風建築によって構成された歴史文化ゾーン「みなとぴあ」に位置するが、「県外からの観光客の人は多いが、来たことのない新潟県民は多いと思う。新潟の人にももっと来てもらえれば」と港が栄えた新潟ならではの魅力を知ってほしいと話す。

北洋漁業関係で、北海道の会社から記念品として受け取った壺

Biz Link