連載 新潟湊を支えた商家 第五回 鈴木家

船道具商を営んでいた当時を伝える絵

廻船問屋からビルメンテナンスへ

新潟における他の商家と同様に、廻船問屋や北洋漁業で発展をとげた鈴木家。新潟とともに歩み、それぞれの時代に合わせて事業を変遷させてきたのが特徴だ。

鈴木家の出身は間瀬(現在の新潟市西蒲区)。江戸時代の屋号は地名にちなんで間瀬屋で、新潟に移住して廻船問屋を営んだ。「弥彦神社の玄関口にあたり、江戸初期は間瀬のほうが新潟より栄えていたと考えられる。間瀬から新潟へは船で来たのだろう」と現在の当主で11代の新潟ビルサービスの鈴木英介代表取締役は分析する。

新潟は一帯が砂漠で、居住地としては適していない。しかし信濃川、阿賀野川を使った船運は発達した。これが廻船問屋の始まりと見られている。特に米の取れなかった蝦夷地に新潟産の米を運び、コンブやニシンを運んだ。明治に入り、廻船問屋の株仲間廃止によって新規参入が相次ぐなか、廻船問屋では事業継続が困難となり間瀬屋は廻船問屋をやめて船具商の看板を掲げた。過当競争に陥った廻船問屋は続く鉄道の延伸でまもなく消滅してしまうが、廻船問屋のステイタスを早々に捨てた間瀬屋は生き延びたのだ。

北洋漁業を始めたのは間瀬屋8代の鈴木佐平。鈴木は日露戦争前に新潟市会議員選挙に当選しており、この頃は一定の納税額がなければ選挙権も被選挙権もなかったため、ある程度家は盛り返していた。北洋漁業への進出は、日ロ漁業協定が締結され漁区の競売が始まった翌年の1909年。鈴木佐平40歳の時で、船具商として付き合いのあった北洋漁業家から得られる情報に耳を傾け、算入タイミングを計っていたようだ。大正に入る頃には安定した収穫をあげている。この頃の所有船は七宝丸、長寿丸、正寿丸、宿弥丸の4船。漁場経営を始めて以降も船具商を継続している。

9代佐平(貫一郎)は早稲田大学を卒業後、父の存命中から家業に従事しており、この頃から漁場経営に赴いていた。9代は写真、絵画などが趣味で、鈴木家には9代が撮影した撮影が多く残されている。戦後は船具としての船舶塗料つながりでペンキやワックスを商売にする。戦後復興の時には建物に塗料を塗るのが流行り、塗料商を営んだ。

北洋漁業を開始した当時の写真。前列中央が鈴木佐平。その右が長男貫一郎

10代の鈴木志郎が新潟ビル清掃社を設立

1955年の大火で市外一円が消失し、洋式のビルが急増するタイミングで10代の鈴木志郎が新潟ビル清掃社を設立。現在の新潟ビルサービスにつながる。塗料商として販売をしていたワックスを、顧客からビルの床に塗るところまで頼まれたのがきっかけだ。日給400円ほどで新潟大学の学生アルバイトなどが働いていた。学生が卒業後には様々な会社の役職に就き、「実は学生のころにお世話になったという話から仕事も増えた」(新潟ビルサービスの鈴木代表取締役)との逸話がある。現在の新潟ビルサービスはビルメンテナンス業として、ビルの保守管理がメインの事業だ。清掃、設備管理、警備を3つの柱に、齋藤家別邸、砂丘館などの指定管理者として施設の運営にも携わっている。

また、鈴木代表取締役は新潟開港150年を契機に萬代橋下流域に位置する「みなと・さがん」エリアの活性化を目指した「みなと・さがんプロジェクト実行委員会」の会長も務める。萬代橋周辺から信濃川河口までの左岸域に立地する企業や住民組織、NPOが集まり地域振興策を検討するための団体で、新潟港の歴史をまとめた本を作ったほか、街歩きや左岸でのイベントも実施。国や県、市などの行政機関と連携しながら新潟港150周年を迎えた同エリアの発展と活性化に向けて取り組んでいる。

11代目の鈴木英介氏が代表取締役を務める新潟ビルサービス