【特集】「一大工業都市 燕と三条はどのようにできた?」(下)燕編


燕三条駅

燕、苦難に立ち向かった変革の町

新潟県随一の金属加工技術の集積地であり、積極的な海外市場の開拓を行う燕三条地域は、今でこそ日本と世界に知られる工業地帯であるが、そのルーツはどこにあるのだろうか。そして、今後どのように展開していくのだろうか。前回の特集では三条を取り上げ、その古代から連綿とつづく工業地帯としての素地に注目した。

第2回となる今回は、県央地域もう一つの一大工業地帯、を取り上げる。燕市産産業史料館の主任学芸員の齋藤優介氏に話を伺うと、隣接する地域にもかかわらず、燕と三条の成り立ちには大きな違いがあることが判明した。

燕市産業史料館 外観

「諸説ありますが、新潟という名前の由来は、正に“新しい潟”という説もあります」(齋藤氏)。この言葉が示す通り、現在の県央地域から新潟市までの一帯は今から約6,000年前はまだ海で、その海岸沿いから現在の弥彦山や角田山が突き出るようになっていた。その地形は北海道のサロマ湖に似ていたそうだ。


【グーグルマップ サロマ湖の地形】海を囲うように突き出ている部分が現在の弥彦山や角田山になる

その後、信濃川や阿賀野川からの土砂が沿岸に堆積し、徐々に現在の陸地が形作られていった。しかし陸地といっても低地であることから、水はけの悪い潟や沼に囲まれた湿地帯であり、洪水の頻発から人はほとんど住んでいなかったという。

かつてこの地域が湿地帯であった名残から、水に関する多くの地名が残っている。例えば、「粟生津」「米納津」など「津(海や川の港を表す)」がつく地名はこの地が水運交通の要衝であったことを物語る。逆に、洪水時に陸地となる「高」「岡」「島」などがつく地名も多い。「燕」という地名も本来は鳥のツバメではなく、「津波目」と書いたという説があるそうだ。また「蒲原(かんばら)」という旧郡名も「ガマ(水生植物)の茂る土地」であるためこの土地の性質をよく反映している。さらに、細長く伸びるようにできた集落も、かつての川に沿うようにつくられている可能性があるという。

 

住民の増加と工業の始まり

ヒトの流入が盛んになるのは1500年代、「戦国時代に入ってから」だと齋藤氏は語る。信濃の国(現・長野県)は上杉謙信の版図であり、武田信玄に攻め追い立てられた現地の住民たちは信濃川を渡って越後の地へ入る。現地民の少なかった当時の蒲原は絶好の入植地となった。しかし、蒲原は前述の通り湿地帯である。平和になり住民が固定化し、年貢の取り立てが明確化した江戸時代では、米の収穫が不安定である事が大きな問題となった。そこで当時の人々は、農業から工業の道へ歩むことになったのだという。

燕と三条が金属加工を始めたきっかけとしては、「代官所奉行として三条に在城した大谷清兵衛が和釘作りを奨励した」という伝説があるが、資料がはっきりとせず、現在でも明確な答えは出ていない。また、三条には室町時代に鋳物師集団がすでに存在しており、そこへルーツを求める説もあるが、現代に直接技術継承が行われているかどうかは判然としない。信濃川と中之口川の沿岸に造られた燕と三条は共に交通の要衝であり、長岡や会津などの地域から技術や材料が流入してきた可能性もある。確かなことは、両地域共に材木など金属を熱するために必要な材料に恵まれ、江戸時代を通して燕と三条で和釘作りが盛んに行われるようになったことである。

株式会社玉川堂の鎚起銅器製作様子

燕で育まれたのは鉄加工だけではない。1700年頃、弥彦山に間瀬銅山が開かれ、燕を統治していた村上藩は、この地で盛んだった和釘作りの技術を応用した銅細工の製作を奨励した。これが現在も国内外に有名な「鎚起銅器」の始まりである。一枚の銅板から様々なものを創る鎚起の技術は、「藤七」という仙台から来た職人により伝えられた。藤七から始まった鎚起銅器の技術はやがて玉川覚兵衛へ受け継がれ、1816年、彼が初代となり「玉川堂」が創業した。


【グーグルマップ 間瀬銅山】

 

時代の変化に合わせる柔軟性

江戸時代には和釘の生産地として隆盛を極めた燕だが、明治以降は洋釘が主流となり、外国からの輸入品に押されてしまう。そんな燕に転換期が訪れるたのは明治44年、東京銀座の「十一屋商店」から注文を受け、燕市の会社が洋食器の生産を始めることとなったのだ。この注文を受けた会社は「玉栄堂」と言い、玉川堂の3代目に学んだ今井栄蔵の起こした会社である。「玉栄堂」は後に、現在の山崎金属工業株式会社の創業者となる山崎文言も輩出している。

さらに第一次世界大戦に入ると、軍需品の生産を優先するようになった外国から、日用品の生産の注文が入るようになった。また同時期、燕一帯へ電気が通い、プレス機による量産が可能になったことも工業が成長する大きな要因であるという。

燕の海外進出は、すでにこの時代から本格的に始まっている。単に海外輸出をするだけではなく、ヨーロッパや東南アジアへの現地視察や商談を行っていた。現在の燕三条地域が海外展開を積極的に行っているのは、こうした時代からの積み重ねによるところも大きい。

燕市の株式会社玉川堂で作られる鎚起銅器の茶器

さらに昭和に入ると、三条と同様に燕でも国内軍需品の生産を開始する。当時の軍需産業は、謂わば国の最先端技術であり、こうした高度な技術を獲得することで燕市は飛躍的に技術力を上げた。齋藤氏は「軍事技術で成長したと言っても、やはり伝統的な技術という基礎の部分は重要。例えるなら燕の金属加工技術は二階建てであり、一階である伝統技術がしっかりしていないと、二階部分は成り立たない」と語る。

燕の歴史は、先述の通り戦国時代の戦災による移民という苦難に始まった。そして不安定な農業から工業の道へ進み、和釘や銅器の一大生産地となるものの文明開化後は輸入品に押され、洋食器から軍需品まで金属加工という幹から様々な枝を伸ばした。燕の工業史は、日本史・世界史と繋がっている。燕の人々は、世界の変化に対応するため、柔軟に姿を変えてきたのだ。

 

燕/三条、両者のアイデンティティ

これまで2回に渡り、燕と三条の町そのものの成り立ちを追ってきた。両地域も江戸時代の和釘作りの伝統を受け継ぎ、明治から昭和まで戦争を経て大きく技術を発展させ、そして現在も日々研鑽している。しかし町の始まりは、湿地帯と山間地という対極的なものであり、諸説あるものの、工業の道へ進むきっかけも、発展を支えた存在も異なる。

また、前述の通り新潟市から県央にかけては湿地帯であったことから、河川の交通網が発達した。現在の県道1号線と信越本線は信濃川を、県道2号線と越後線は西川に沿う形で整備されている。そのため、各地域の文化も川沿いに近しいものとなる。燕地域は中ノ口川の文化圏に属している。一方、三条地域は加茂や田上といった信濃川の文化圏に所属する。

さらに齋藤氏は、「隣り合っている地域だからと言って、現代と近代以前の時間感覚を一緒に考えてはいけない」と話す。かつて街の中心地となっていた現・燕駅周辺から現・三条駅周辺までは徒歩で約2時間。現代の2時間なら新幹線で東京まで行くことが可能だが、当然江戸時代に新幹線は無い。かつての燕と三条の文化的なギャップは、現代の新潟と東京ほどあると言える。加えて、両地域の間には中ノ口川と信濃川という二つの大河が挟まるのだから尚のことである。正に、前回三条鍛治道場の長谷川晴生館長が語った、二つの地域の心理的・物理的距離があったのだ。

三条鍛治道場に展示されている和釘と鉋

近年、燕と三条の協力が両地域の工業を考える上で重要となってきている。二つの地域の技術を結集させた製品や、「燕三条 工場の祭典」に代表されるオープンファクトリーの試みは県内を飛び出し国内、そして海外への飛躍を見せている(関連記事 「燕三条 工場の祭典実行委員会が今秋1か月間、燕三条のものづくりの様子などを日々オンライン配信」 2020年9月1日)。しかし、両者は文化も違えば歩んできた歴史も違い、それぞれが故郷へのアイデンティティと誇りを持つ。さらに言えば、和釘から始まり研磨が得意な燕と、打ち刃物の有名な三条の産業は、各地域内でも様々に進化した。エンドユーザー向けの有名な企業もツインバード工業株式会社や株式会社スノーピークなど多数存在するが、BtoB製品を作る専門的な技術を持った企業の方が圧倒的に多い。

純粋な技術力は燕三条地域の要だが、このような技術の「多様性」も大きな力となっている。「どのような不況期であっても全ての産業が落ち込む訳ではないため、金属加工技術の集積地である燕三条では産業が全滅することはない」と三条市に関わりのある金融関係者は語る。それぞれの職人、企業、地域が独自性を持ちつつ協力し合う──そうした在り方が、燕三条という地域の未来を創っていくのではないだろうか。

燕市産業史料館

 

【関連リンク】
燕市産業史料館 公式webサイト
http://tsubame-shiryoukan.jp/index.html

燕市webサイト 「沿革 燕の地名の由来」
http://www.city.tsubame.niigata.jp/about/002000127.html

三条市webサイト 「工業概要」
https://www.city.sanjo.niigata.jp/soshiki/keizaibu/shokoka/4534.html

燕三条 工場の祭典 webサイト
https://kouba-fes.jp/2020/index.php#a00



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