【ジープ島からの贈り物】〜自然と人が繋がる大切さ〜第3話「命より大切なモノ」渡会和馬
(編集部注)この原稿は赤道直下のミクロネシア連邦チューク州からインターネット回線を通じて日本に送られています。

お母さんと僕
人間である上で命より大切なものはない。そう断言したい。
そんな人生最大の挫折。
それは、19歳のある時に母が突然、植物人間状態になり更に3,200万円の借金を負ったお話しをさせていただく。
あれは、母からの一通の連絡が始まりだった。
「少し調子が悪いから、仕事を1週間休んで家で療養するね」
ということだった。その時の僕は学校、バイト、プライベートで充実しており、実家であまり会うことも話すこともなかった。
一言、「大丈夫なの?ゆっくり休んでね」と風邪を引いた相手に伝える様にその場を終えてしまった。
もう一歩、踏み込んで母への配慮に努めればよかった。
その1週間後、母は何事もなかったかの様に仕事へ戻る。しかし、その時には手遅れだった。
母の会社の方から大学の帰りに電話があった。「お母さんの病状のこと知ってる?あまり回復していないみたいで耳が聞こえていないみたい……」
正直、僕はその状況が全く理解できていなかった。
母は、既に髄膜炎になっており脳炎・脳症に転移して緊急入院になったのである。
その後の6年間は、言葉は悪いが地獄の様な日々だった。
父も離婚し離れていたこともあり19歳の僕。そして、17歳の妹と母方の祖母の3人で全てを向き合った。
母は、戦っていたのだろう。四肢をベットに結ばれながら毎晩の様にうなされていた。
そして、その姿を見てどれだけ自分に責任を感じ無理を重ねて僕達2人を女手一つで育てていく決意だったのかを感じた。
謝りたくなった。そして、辛さと申し訳なさから涙が止まらない日々が僕達も続いた。
両親が離婚する1年前に両親は4,000万円を銀行から借り入れ、土地と新築の家を購入していた。
素晴らしい家だった。離婚後は、母がその家の世帯主になり僕達もそこに残った。
その後の母の出来事だった。
母は、入院後1ヶ月ほどで息をしているのかしていないのか、動くことのない植物人間状態に陥った。
必死に介護した。世界一周に行く夢の為に2年間のバイトで貯めてきた120万円を全て母の医療費に充てた。
僕は、母の金銭面のこと銀行通帳の暗証番号など分からなかったのである。お金が下ろせなかった。
4か月もせずお金は底を付き近所の方や知り合いの方からご飯や生活用品をいただく生活が始まる。
悪夢はこれだけではなかった。
家の借金に対する母への催促が銀行から入った。この時は、目の前が真っ白になったことを覚えている。
僕は、未だ3,200万円の借金返済があることをその時は知らなかった。
自分の生きたい人生はもう生きられないと19歳ながらに汲み取り、現実に絶望しか感じなかった。
しかし、1つだけ譲れなかったモノ。諦める訳にいかなかったこと。
それが母の命である。
3,200万円の借金発覚後に人の助けにより家のローンは免除され、保険金にて2,000万円以上が降りてくる。
正直、救われた。
気持ち的には、5,000万円以上のお金が動き、自分と家族、母を助けられると思った。
それでも変わらず母の意識は戻らず介護は続く。
『母の命』、その価値や重さだけはお金がなくてもあっても僕の中で何一つ価値が変わらなかったのだ。
そして、入院から4年後のある日、命の措置を決める瞬間がきたのである。
僕は、その時に自分達や母の為に多くの処置を施すことをやめ命の流れにまかせることを決断した。
その後、母は奇跡的な復活を果たした。
説明はできない。奇跡だった。

退院した母とカラオケ

ジープ島から一時帰国中の僕と母
しかし、僕自身にも限界が来ていた。自分の弱さ、向き合い続けた運命に精神的にも肉体的にも立ち直れない所まで来ていた。
入院から始まり家も含め約半年間、以上は外にでることができなかった。
自分の心すべてを失った感覚の中でもし最後に1つやれることがあるなら……。
白紙の紙にペンを握り描き始める。
世界一周。それは、忘れていた僕の夢だった。
最後まで捨てられなかった命と人生を変えた1冊の本を胸に僕は、世界へ旅にでる。(※現在、母は日本で百名山に登りジープ島に2回くるほど元気である)。
命より大切なものはない。それは、母から教えてもらった命の大切さである。

家族のみんなで