【企業ドラマ、かくも豊饒なり】 ベストプラクティス企業となった新潟電子工業、圧巻のファンタジー

岡﨑淳新潟電子工業株式会社代表取締役社長
シャープに「捨てられた」子会社
新潟市南区に本社を構える新潟電子工業株式会社は、エレクトロニクス分野の製造業を営む企業である。2025年には「働き方改革」への取り組みが評価され、厚生労働省から「ベストプラクティス企業」に選定された。
にいがた経済新聞はこれまで数多くの企業ルポを手がけてきたが、新潟県内において、これほど数奇な運命をたどった企業は稀である。大企業の栄光と衰退、その狭間で翻弄されながらも自立を果たした歩みは、地方企業の現実を象徴している。
新潟電子工業の設立は1970年。大手電機メーカーであるシャープ株式会社と理研電線株式会社との合弁により、「シャープリケン株式会社」として誕生した。シャープが当時開発した最先端製品である電卓の組立工場としての役割を担っていた。
1976年にはシャープの完全子会社となり、1987年には社名をシャープ新潟電子工業株式会社に変更。だが、電卓市場が成熟し、価格競争が激化すると、生産子会社である同社は厳しい局面に立たされる。そこで親会社への一極依存からの脱却を図り、独自技術の開発に着手した。その成果が、スイッチング電源の開発であった。

激動の歴史をたどった新潟電子工業株式会社(新潟市南区)
技術開発型の土壌は、2000年代に入って大きな意味を持つ。いわゆる「亀山モデル」で世界を席巻したシャープの液晶テレビを支えたのが、新潟の工場だった。2001年に液晶バックライトの開発が始まり、同時に開発された蛍光管用インバーターはシャープの液晶テレビに採用された。亀山工場で生産された液晶テレビの電源とインバーターは、新潟で生産されていたのである。
2009年、シャープは約4,300億円を投じ、大阪府堺市に液晶パネル工場を建設した。「液晶のシャープ」としての地位を確立する一方で、事業領域を極端に集中させた経営は、当時からリスクをはらむとの指摘もあった。
親会社の成長と歩調を合わせるように、シャープ新潟電子工業の売上高は2010年に約250億円と過去最高を記録した。しかし翌2011年、売上高は約84億円へと急減する。コモディティ化が進んだ液晶テレビ市場では価格競争が激化し、親会社は生産拠点を海外へと移し始めた。その結果、新潟への発注は事実上途絶えた。富山工場で生産していたソーラー向けシリコンウエハーや、わずかに残っていた電子部品の受注も、ほぼゼロとなった。
かつて「世界の亀山モデル」を支えた子会社は、親会社から切り離された。2012年の売上高は52億円まで落ち込み、2期前の約5分の1に縮小した。倒産の危機が現実味を帯びる水準であった。

「ブランドや販売網にこだわらずにいることで、競合からもODMの受注をいただいている」と岡﨑社長
自社製品での再起とMBO
2011年10月、広島県のシャープ三原工場から岡﨑淳氏が社長として赴任した。現・新潟電子工業株式会社代表取締役社長である。
「シャープの社員時代に反抗的だったので、子会社に飛ばされたのですよ(笑)」
冗談めかして語るが、赴任当時の状況は極めて深刻だった。岡﨑社長は、親会社の都合で窮地に立たされながらも黙々と働く社員の姿に触れ、「このまま終わらせてたまるか」という思いを強くしたという。
当初は、親会社の拠点を回り、仕事を求めるしかなかった。しかし、液晶事業から撤退させられた経緯は社内に知れ渡っており、新たな仕事はほとんど得られなかった。
そこで岡﨑社長は、自社の技術に立ち返った。液晶テレビ一辺倒の生産体制だったが、シャープ本体が持たないパワー系技術やLED関連技術を有していた。海外製品の品質が国内製品に及ばない分野であり、独立の可能性を見いだしたのである。
営業体制を再編し、社長自らが先頭に立って自社製品の拡販に奔走した。2013年の売上高は72億円とやや持ち直し、2014年には単年度黒字を達成した。

2025年に竣工した新工場のジオラマが展示される
一方、シャープ本体の経営は悪化の一途をたどっていた。「売れるものは何でも売る」という局面に入り、新潟の子会社も売却対象となるのは時間の問題だった。2015年、ある投資ファンドが新潟電子工業に関心を示す。
岡﨑社長は当時のシャープ専務取締役から「お前たちで会社を買え。社長は続けろ」と告げられた。経営陣によるMBO(マネジメント・バイアウト)という選択肢が浮上したのである。
金融機関との交渉は難航したが、粘り強い交渉の末、融資枠は最大11億円まで拡大。役員が拠出した1億円を加え、計12億円を調達した。2015年12月22日、MBOは成立し、新潟電子工業はシャープから完全に独立した。
そのわずか5日後、台湾の鴻海精密工業によるシャープ買収が発表される。結果として「消えた」のは親会社の方であり、新潟の工場は地場企業として生き残った。
「20億でやっていける会社」へ
独立後、岡﨑社長が掲げたのは「ガラス張りの経営」である。月例の全体朝礼や方針説明会を通じて、業績や課題を社員と共有し、経営の見える化を進めた。
事業戦略は、アナログ電源技術を核とし、省エネ分野でのLED照明を中心とするODMに注力する方針を定めた。ブランドや販売網を自前で持たず、設計・生産に特化する戦略である。
2018年には社名を現在の新潟電子工業株式会社に変更。企画、開発、調達、生産、市場対応までを一貫して担う体制を構築した。

2017年から取り組んでいる受注・生産のDXは働く環境の効率化を実現した
2020年、新型コロナウイルス感染症の拡大により、世界の産業界は大きな打撃を受けた。同社の売上高も2020年から2023年にかけて約20億円にとどまったが、既に「20億円規模でも成り立つ体質」への転換を進めていたことが奏功した。
2024年には京セラ向けパワーコンディショナーの量産が始まり、売上高は47億円までV字回復した。
親会社の都合に翻弄され続けた子会社時代を経て、MBOによる独立以降は、一人もリストラせずに経営改革で苦境を乗り切ってきた。経営のダウンサイズ化もコロナ禍も。
働き方改革の実像
同社では営業・生産ともにノルマを廃止し、会議の回数も大幅に削減した。2012年に月30回、22時間を費やしていた会議は、2024年には月8回、7時間にまで減少した。
DX化も進め、受注から生産までをデータで一元管理。残業時間の削減や育児休業制度の充実により、2020年以降の育休取得率は男女ともに100%となっている。社内における出産の件数も、年平均5人が誕生しており、子育てしやすい企業風土が完全に定着した。
こうした取り組みが評価され、同社は厚生労働省のベストプラクティス企業に選定されたほか、ユースエール企業、くるみん認定も受けている。
地方の一企業がたどった激動の歴史は、変化の時代における企業経営の在り方を示している。
(文・写真 編集部 伊藤直樹)