【特集】イワコンハウス新潟・髙尾茂典社長独占インタビュー(前編) ― 未来へ受け継ぐ経営の志 ― 創業50周年を迎えるイワコンハウス新潟 挑戦の軌跡

新潟市江南区にあるイワコンハウス新潟本社

1976年(昭和51年)の開業以来、「誠実・安全・環境」を経営理念に、地域の人々に安全で豊かな生活を届けてきたイワコンハウス新潟株式会社(新潟市江南区)。

地震・豪雪などの自然災害に対し圧倒的な強さを誇るPC(プレキャストコンクリート)造の住宅・集合住宅の建設事業から始まり、2000年代には、光熱費を大幅に抑え地球環境への負荷も小さい外断熱工法、シックハウス問題に対応した自然素材でつくる無添加住宅を主力商品に加えるなど、事業を展開してきた。同時期に、高齢者向け福祉施設の建設にもいち早く取り組んだ。現在では、大型の店舗・工場の建設、大規模な土地開発事業なども手掛ける総合建設企業へと発展を遂げている。

この半世紀を、不屈の精神で牽引してきたのが、髙尾茂典社長(77歳)だ。「出会い、関わりを頂いた全ての人に感謝する」同社の理念や、「常に立ち止まらずに前に進み続ける」社風はいかにしてできたのか、富山の雪深い山間部で生まれ、3人の師から学びを得てきた髙尾社長の半生を振り返りながら、その過程を探る。

 

北アルプスの名峰 立山、剱岳で育んだ「やり遂げる力」

イワコンハウス新潟の髙尾茂典社長

髙尾社長の原点は、その少年時代にある。1948年(昭和23年)に富山県北部、立山のふもとの本宮(現在は富山市)で豆腐の製造と雑貨店・衣料品店を営む両親のもとに生まれた。富山の人々は勤勉で知られるが、髙尾家はまさにその典型だった。髙尾少年は小学4年で人生最初の「仕事」に出会う。

「父の知り合いの牛乳配達員が辞め、父から『お前、やってみるか?』と声を掛けられたことがきっかけでした。子どもだからといって『小遣いではなく、仕事の対価として給料を支払う』と父は約束してくれました」(髙尾社長)。

立山山麓の冬は長く厳しいが、「牛乳を待っている人がいる」その思いを胸に高尾少年は決して休むことなく、たとえ吹雪の中でもソリを引いて早朝に牛乳を配達する、それを中学3年までの6年間続けた。スキーや登山道具、ステレオ、ギターなど好きなものを買える喜びもあったが、なにより髙尾少年の財産となったのは、「商売の厳しさ」「お客様への責任」をその身をもって学べたことだ。

そして もう一つ、経営者としての髙尾社長の信念を形作る出来事があった。その日は大人でも外に出るのをためらうほどの猛吹雪で、子ども一人での配達は危険な状況だった。普段は黙って髙尾少年の仕事ぶりを見ていた父と母が、その様子を見かねて一緒に配達してくれたのだ。

「そのことをきっかけに、自分の成長を願って普段は優しく見守っていてくれている両親が、いざというときには困難を乗り越えるために支えてくれる。その実感が、後に私が社員や家族を支える側に立った時の原点になりました」(髙尾社長)。

その「支え」に頼ることは決して甘えではなく、結果を出し続けるためには、ときには人の力を借りることも大事だ、ということも学んだのだ。

さらに髙尾少年の精神力を鍛えたのは、中学から大学卒業まで10年間続けた山小屋でのアルバイトだ。元来自然が好きで、同級生に誘われて標高2,400mにある剱岳小屋で、40キログラムほどの荷物を背負う歩荷(ボッカ)や、登山者の安全を守るガイドの仕事に従事。経営者は山岳界では名が通る人で、かの有名な三浦雄一郎氏率いるスキーチームの合宿も受け入れていた。

日中の重労働で体は疲れ切っていたが、夜になって、這松(ハイマツ)をベッドに眺めた満天の星空が心を癒してくれた。同時に、大自然に包まれているひと時は、高尾少年が自分の可能性や未来を考える時間でもあった。

「山登りと同じで、たとえ遠くても目的を明確に持ち、一歩一歩登り続ければ、どんな困難も必ず乗り越えられゴールが見えてくる。そんな確信を学んだ10年間でした」(髙尾社長)。

 

株式会社イワコンでの14年間─3代の社長に師事した修行時代

株式会社イワコン時代の髙尾社長

1971年(昭和46年)大学3年時、PC(プレキャストコンクリート)住宅で建設大臣認定(当時)に挑戦する地元富山の企業「株式会社イワコン」を知る。当時、工業化住宅の開発の大半は大手ハウスメーカーが行う中、地方企業のイワコンが工業化認定住宅制度に挑戦していることに興味を持った。岩島保初代社長と面談し、「この会社で建物造りを通じて、『人の役に立つ、社会に貢献する』という夢を実現させたい」という強い思いを受け止めてもらい入社。研修を経て、2年目には社長室勤務を命ぜられた。

「社長とともに毎週のように東京の大学の研究室へ足を運び、工業化住宅の開発、大臣認定の準備を重ねていきました。同時に、工場での研修、現場監督も経験しました。社長室から営業部への配属が決まっていた私に、創業者の岩島社長は、住宅営業で結果を残すためには、住宅の性能や生産過程、施工管理や品質チェックの方法など多岐に渡った知識がいかに大切かということを徹底的に叩き込みました。この教えは今でも私の営業の基本です」(髙尾社長)。

翌年、髙尾社長は若手中心のチームで住宅営業部の係長に任命された。他4つの営業部門の課長は全て50代だったが、たとえ先輩でも営業では負けたくないという思いで深夜まで働いた。「今では考えられませんが、当時は長時間の残業が許されていた時代でした」(髙尾社長)。

先輩たちは良き相談相手でもあったが、部門間での切磋琢磨が、若いチームが販売実績を出し続ける原動力にもなっていた。そして、その若き係長チームの販売成績が二代目の吉田正久社長に認められ、イワコンでは県外初となる新潟営業所の初代所長に任命、会社の命運を左右する新たな市場開拓を任された。それが新潟での第一歩だった。

「吉田社長は新潟にもよく足を運ばれ、そのことが、無縁の開拓地で奮闘していた私には大きな支えとなりました」(髙尾社長)。

三代目の赤間静市社長は上場企業から出向で来た人物。大手企業で数々の会社を経験してきたまさに経営のプロフェッショナルだった。髙尾社長が新潟営業所長として勤務した14年間のうちの10年間は、赤間氏が社長を務めていた。

そして、髙尾社長の人生の中で最も大きな転機の一つ、株式会社イワコンからの独立の時に、その後押しをしてくれたのも赤間社長だった。

「今、振り返ってもイワコン本社への不満や野心というよりも 『ただ、自分の思うように組織を運営してみたい』という思いが強く、新潟営業所の独立を要望していました」(髙尾社長)。

当然ながら“本社”にとって新潟営業所の独立は、デメリットの方が大きく、多くの役員は反対あるいは本社の持株比率2/3以上といったそれ相応の高い条件を提示してきた。

そういった中でも赤間社長は、自社の利害を超えて、髙尾社長の情熱を理解し応援してくれた。

最終的には完全独立を意味する「本社持株比率ゼロ」でイワコンハウス新潟株式会社の設立を容認してくれただけではなく、社員を含めた新潟での事業全般も引き継ぐことが出来た。

会社独立後も赤間社長は度々新潟を訪れ、初めての会社経営で不安を抱える髙尾社長に「社長道」の何たるかを指南した。

その言葉の一つひとつが髙尾社長を励まし、勇気づけ、それが心の大きな支えになった。

イワコン時代の3人の社長との思い出を語る

初代からは「志」と「技術」、二代目からは「組織力」と「競争心」、三代目からは「経営者としての覚悟」と「独立の精神」を。三人の社長はそれぞれ異なる視点から髙尾社長を育て上げた。

「本当に可愛がっていただき、感謝しかありません。三代にわたる社長の教えなくして、今の私はなかったでしょう」(髙尾社長)。

イワコンハウス新潟創業の原点は、これまで出会ってきた人との縁にある。

※後編に続く 【特集】イワコンハウス新潟・髙尾茂典社長独占インタビュー(後編)

 

(インタビュー・文 野口彩)

 

【イワコンハウス新潟株式会社】
新潟県新潟市江南区東早通1-2-6
TEL:025-382-1000
WEB:https://www.n-iwacon.co.jp/

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