【文明論】第11回「嘘と本当」<後編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)

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掲載日:2024年6月11日(最終更新:2024年6月23日)

映画を作ろうと考えたときに、我々の持っている人間個人の意識と、日本での芸能の世界とを結ぶ間の領域に、文明という何故かあまり触れられることが無かった、特にヨーロッパ由来の文明を見つけたためこのタイトルとなった。

私が何かについて考えるとき、脳内では遥か遠くからやって来た言葉が働いている。太平洋戦争中のようにカタカナ・横文字の言葉を使用禁止にされるだけでもかなりキツイが、中国由来の言葉を封じられでもしたら完全にお手上げだ。

言語は文明を創り、育て、それを伝播させてきた。そして辺境の島国のさらに辺境に生まれた人間の脳にも複雑な概念を理解できるようにした。言語は人間をその文明様式の服装と共に包み込んだが、猿真似で尻尾は隠せない。京都人だろうが東京人だろうが日本人は田舎者のままなのだ。

『蒼きウル』は開き直る。中央への憧れを抱きながら、クソ田舎を永久に出られない全世界の同胞に寄り添う。偽らぬ田舎者として、上昇と平等。両方を肯定する。これがリアルな「現在」への表明である。

先の単元にも述べたように、その運動は現在地を失って宙を浮遊することになる。もちろん、確固たる目的は映画そのものにあるのだが、目的の意味は語られぬまま、ただ混沌の海を漂う。それは春の花見の宴。満開の桜の下に集う姿に例えられるかもしれない。

命を見ようとすれば死を目の当たりにする。得体の知れない巨大な何かがこちらを見ている… 我々のリアルな「現在」には、死の影。大いなる存在。それらに対しての漠然とした不安。恐怖。といった不条理な感情が横たわっている。まだ人類が野蛮な荒野の住人だった頃、遺伝子に遺された記憶だろう。

夜空さえ焦がすような街の虚飾をすべて取り払えばそこにあるのはリアルな孤独。生きているのさえ辛いクソ荒野だ。ライブが行われる舞台もここのムードが基調となる。どんよりとした薄暗い背景だからこそ桜の花は最高に鮮やかに咲く。それが文明なのだ。

戦争や貧困、差別、果ては核攻撃に大量虐殺。それらを扱う映画がとんでもない悲劇を宴の余興にしてしまうのは、安全な処からの卑怯な覗きかもしれないし、悪趣味かもしれない。その非難をまったく否定しないまま思う。人類の文明という夢想は、そうした恐怖の視点からしか見ることはできないのではないか。

私は少年時代に五島勉の『ノストラダムスの大予言』という本に夢中になった。最初は子供らしく人類滅亡的な予言に怯えていたが、次第にそれはどうでもよくなった。よく考えてみれば自分一人の不慮の死は、自分にとって世界人類37億人(当時)一斉の死と同じことだ。

ただ、1970年代初頭、周囲の大人たちが生活レベルの話しかしない中、文明の終焉を不思議な詩にのせて語るその本は私の心を捕らえて離さなかった。そこに書かれた予言が嘘か本当かなどより、じゃあ、その本よりも遥かに尊重されている教科書はどれくらい本当なのか? ということの方が気になった。

我々は本当に、本当の中で生きているのか? この疑問は当時、多くの子供が一時的にかかる病として先生たちに笑われた。しかし、還暦を過ぎた今となってもその病は治っていない。私は笑われても大丈夫な職業としてこの仕事を選んだのかもしれない。

でも、さすがに疑問形は飽きた。きっぱりと断定する。我々は本当の中になど生きてはいない。正義も悪も立証は不可能である。だからこのライブを執り行うのだ。すべての「本当」を真に受けず、すべての「嘘」を軽くあしらい、満たされぬ承認欲求で持て余すその自我を、ただ宙に浮かせて生きるために。

アナキズム? 精神の堕落? これは無秩序の奨励なんかじゃない。言葉の必然に従えば、文明の良心は必ずその文明が規定する善き方向へと導く。時の社会や国家の枠を超えることはあっても、子供のころから親しんできた文明に背いたりはしない。

ブランコの例えとはこういうことである。目的の呪縛からは自由であっても鎖の存在がしっかりと落下を防いでいる。上昇と平等の反対にある世界など悲惨でしかないだろう。文明は最大の出資者であり、絶対のクライアントなのだ。

そして、ロマンスとしての騎士物語にはきちんとした結末がある。ドラゴンは騎士によって倒されねばならないし、姫は解放されなければならない。また、騎士がその地を去って行かねば話が終わらない。このルールを守ってこその類型。ラップでいうところのライム。短歌での五七五七七みたいなものだ。

アニメ映画としての『蒼きウル』のラストシーンはそのお約束の〆が用意されている。ただし、子供のブランコに終わりがないように、物語『蒼きウル』としてのそれはまた別だ。(続編を予定して作るという意味ではない)

理由は、この文明が掲げてきた理想、良心が、本当のところ、嘘か本当か未だ決着のつかない進行中の現実だからだ。

この雑文だってそうだ。論を名乗っているのに結論などありゃしない。いや、お約束程度には結論めいたことも言っておこう。

「すべての事象はブラックホールへの落下の途中である」
… 私もSFの人だからね。

すべての物語の本当はネバーエンディングストーリー。結末は無いのだ。

山賀博之 (絵・岸田國昭)

山賀博之

1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。

現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。

 

【文明論】第10回「活動絵画」

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