【第5回ー①】くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)


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くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年「第4回 風の三郎を穏やかに撃退する農耕儀礼」 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

 

5-1.くびき野ストーン3兄弟の勢ぞろい

1990年代を過ぎて2000年代に入ると、私は、神仏虐待(フェティシズム)あるいは価値転倒のケーススタディを求めて、海外にフィールドを拡大していきました。一つは2000年と2001年の二度にわたって出かけた地中海のマルタ島での巨石神殿と母神信仰の調査です。もう一つは2008年から複数回に及ぶ韓国での古代日韓交流文化調査です。

けれども、本シリーズではその活動を話題にするよりも、2005年に行われた上越市と近隣13町村の合併、いわゆる平成の大合併にかかわるフィールド調査に読者各位を誘いたく思います。

2008年4月から、私は上越市でNPO法人頸城野郷土資料室を運営し、地元特産の石材(大光寺石・切越石・中山石)をもちいた「くびき野街並みカラー」による都市設計を市民に提案してきました。

この石材はクリーム色を基調とした凝灰岩です。平安時代から石仏や石塔、鳥居、五輪塔の素材として注目されてきました。臼や風呂、井戸側にも使用されました。滑りにくいので雁木や遊歩道の敷石に使用されてきました。そのほか門柱や車道の仕切り石にも似合います。

上越地方=くびき野で採取された岩石を私は「頸城野ストーン」と名付け、市民に幅広く知ってもらい、雁木の敷石として再利用する、新幹線駅の内外装に活用する等の提案をしてみました。依然として注目されるには至っておりませんが、凹(へこ)まず頑張って宣伝しています。

“くびき野ストーン”とは、上越地方に産出する特産の石材(凝灰岩)およびそれをもちいた石造物の総称で、大光寺石・中山石・切越石をさします。以下、各々について説明してみます。

先ずは大光寺石(だいこうじいし)。古くから大光寺の里を“切り石の里”と地域の人々は呼んできました。

今日のようにセメントやアスファルトが普及しなかった頃の大光寺石は頸城平野になくてはならない貴重な産物でした。大光寺石は色白く石質はあらく柔らかく光沢はないです。

古寺、神社の鳥居、人家の礎石、土蔵の礎石、古石橋、敷石、墓石、手洗石、石風呂など、広く多方面に利用された切石は、三和区(旧上杉村)から頸城平野一帯の生活・文化に大きな役割を果たしてきました。石工も沢山集まり市場も開かれ、栄えた時代が長く続いたのですが、科学の伸展と文化の変遷に押されて、大光寺石は21世紀のこんにち、人々に忘れ去られようとしています。

ただし、今もってなお、神社・寺院において重要な役目をにない、歴然とその姿を伝え、ここに大光寺石ありと、胸を張っている石造物があります。その代表的なものを上げると石の鳥居があり、何十段も続く石段があります。石灯籠もあります。

5-2に続く

 

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

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