連載 新潟湊を支えた商家 第四回 鍵冨家

米相場から多角的に事業展開

初代の鍵冨三作

齋藤家・白勢家と並ぶ新潟市の「三大財閥」のつ、それが鍵冨家だ。米どころ・新潟で米相場を展開して隆盛を極め、幅広い事業で新潟の発展を支えた。現在でも、一家の絆は脈々と受け継がれている。

初代の鍵冨三作は、1833年(天保4年)に西蒲原郡大野町で生まれた。廻船問屋の越前屋太兵衛に丁稚奉公、経営について学んだ。実家は新潟町で旅宿を営んでいたが、父が死去後も旅館は継がず、米相場を展開。だが、米価暴騰の際に投機に失敗。投機筋から手を引いた後、誠実な生活を歩み資産を蓄積して資本を蓄えて海運業にも進出した。

ほかの二大財閥が地主から農業資本で資産を増やしたのに対し、鍵冨は三作が一代で財を築いたのが特徴だ。米穀商のほか、金融業、貿易商、運送業にも幅広く手を広げ、北越屈指の富商と称される。北越鉄道会社の創立に関与したのをはじめ、新潟持寄米売買所、設立などにも尽力した。

なかでも金融では1898年に「鍵三銀行」を設立。その後、第四銀行と合併するが、1917年に建設された建物は第四銀行古町支店となり、赤レンガの銀行として親しまれた。

また、港町新潟の発展には港湾整備が大切だと説き、新潟港の築港と修復工事の推進にも尽力。鍵冨一族により設立された鍵三合資会社の船舶部では新潟港から日本石油製品を九州方面に輸送し、帰港の時には九州・四国方面から石油、石炭、食塩などを輸送した。日本軍がシベリアに出兵した時には、新潟-ウラジオストク間を航海し、生活必需品の輸送にもあたった。なお、同合資会社は新潟市長を務めた村田三郎氏が経営を担っていた。

赤レンガの銀行として親しまれた鍵三銀行

 

親族が集まる「かたばみ会」

一族の中では、新潟商工会議所会頭を務めた和田閑吉は元々鍵冨家の人物で、養子として和田家に入り継承した。和田閑吉は1963年頃、鍵冨家の各家庭にまつってある仏壇、墓へのお盆と正月の挨拶回りをやめて、年2回集合して会食することを親族に提案した。疎遠になりがちな親戚がコミュニケーションをよくして連絡を取り合おうと、意見が合致。鍵冨の紋章をとりいれ「かたばみ会」という名の親戚一堂が集まる親睦会が発足し、64年に初の会として23人が集まった。

最近では2~3年ほど前に開催し、懇親を深めた。鍵冨家の分家にあたり、新潟放送で勤務する鍵冨徹氏は「鍵冨家が栄えていた当時の建物で残っているものはないが、新潟の黎明期に貢献していたと感じる。絶やさないでいけたら」と語る。

新潟市中央区西堀通の真浄寺には鍵冨家の墓がある。松の木の下に、ひと際目立つ存在感のある出で立ちで、鍵冨家の繁栄が見て取れる。現在でも鍵冨家の一族で、お盆の時期などに順番で清掃を行っている。

真浄寺にある鍵冨家の墓

様々な事業に視野を広げ、拡大をしてきた鍵冨家。家系図は立派な冊子として残り、現在でも本家、分家ともに新潟県内のみならず、県外や海外でも活躍。本家の真一氏は、三菱地所で活躍しており、徹氏の息子、弦太郎氏はバイオリニストとして名の知られた存在だ。本家系の哲男氏から、バイオリンの譜面を引き継いだのというエピソードもある。

鍵冨一族には、「鍵冨宗家家法」というものがあった。本家を中心に一族が協力し、家業を守り、財産を維持発展するよう約束をするためのもので、集団の利をとり人の和を説くものだった。そして積極的に公共の福祉に市民の一人として参画するよう説いた。

時代は変わり、昔のように親戚が集まったり、親睦会を開いたりするような時代ではなくなった。だが、親戚の輪が「和」を生み、絆として受け継がれている。鍵冨家には、古きよき日本が残っているようだ。

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